争などを好まぬタチで性来虚弱であったそうだが、入牢後は特に衰えていたらしい。
 グチエレスの死後は、彼が長崎の信徒の団体を支配した。昼は長崎奉行の別当をつとめ、夜になると、町々を村々を山野を走って告解をきき、洗礼を施し、教義を伝えた。そしてトマス次兵衛という日本人の神父があって長崎の切支丹を支配しているということは取締りの役人に知れていたが、彼が奉行の別当だということは数年間分らなかった。
 一人の転向した絵師が信徒のフリをして教団に出入し、彼の顔を写生するのに成功し、そこで彼が奉行の別当をしていることも分ったものらしい。このときから次兵衛の逃亡生活がはじまったが、彼をかくまった容疑で五百余人が捕えられたが、彼のみは常に最後に煙の如くに掻き消えてしまう。彼の刀の鍔に金の十字架がはめこんであったらしく、彼の姿が消える前にその十字架に礼を払って胸に十字を切る。そしてパッと身をひるがえして煙の如くに遁走する。そこで金鍔次兵衛の名が現れたのだそうだ。彼が妖術、もしくは忍術使いだということは捕吏をはじめ一般に確信されたもののようである。そしてその妖術の鍵が彼の帯刀の金の鍔にあるという俗説も行われていたようだ。
 思うに、日本の忍術使いが真言の九字を切るということは後世の空想的な産物で、その原型は、むしろ切支丹が胸にきる十字、そして金鍔次兵衛の存在や流説などがその有力な原型ではなかったかね。日本の忍術使い、甲賀者は切支丹以前から存在し、島原の乱にも幕府方、松平伊豆守が甲賀者を用いたことが、その息子の日記に見えている。甲賀者は天草四郎の部下の農民に変装して籠城の敵軍にもぐりこむことに成功した。ところがこの忍術使いは忍びの術には達していたが、九州の農民の方言も分らぬばかりでなく、切支丹の用語も知らず、その祭儀に処する身ぶりの心得もないから、たちまちバレて背後から石ツブテをぶつけられつつも忍術使いだけの貫禄を示して、ホウホウのていで逃げ戻ったという。かくの如くに現実の忍術使いに九字を切ることは実在しないし、太閤記だの真田軍記だのと伝説的な忍術使いが現れて胸に真言九字の印をきりだしたのは後日のことで、どうも切支丹の十字の方が忍術の九字の印の原型だろうと私は思う。そして要するに、今日の猿飛佐助の原型、あの胸に九字の印を切る様式の原型は、それを史実に探るとすれば、実は金鍔次兵衛に非ずや。切支丹の十字に対して、一方は真言の九字の印をきるという。まア、真言といえば山伏の法術も真言の秘法の如くではあるが、山伏は九字は切らんな。真言と云い、九字をきると云うところに、それに相応する原型らしき切支丹とその胸にきる十字があり、金鍔次兵衛先生の武者ぶりなどが際立って私の幻にうつるのだが、どうでしょうか。
 しかし、金鍔次兵衛の煙の如き遁走ぶりがどんなに破天荒なものであったか、ということは、実は彼の味方たる切支丹の記録からは判然しない。パジェスは彼の神出鬼没の活躍を英雄的に記録して、日本人が彼を魔法使いとよんだことを記録している。しかし、実に彼を追いまわした大村藩の記録には、殆ど世界中の誰しも信じがたいバカバカしい追跡の事実が残されているのである。
 もしも徳田球一の隠れ家が分った時に、日本の警察はどれだけの警官をくりだすであろうか。五百人か? 千人か? 三千人か? 五千人か? 一万人か? 戦車か? 飛行機か? 原子バクダンか? まさかね。一連隊の警察予備隊以上をくりだしはしないであろう。ところが次兵衛の隠れ家を包囲するには、すくなくとも六連隊、思うに完全武装した三師団ぐらいのものが一時に出動し、これに海軍も加わっていますよ。以下、大村藩の記録を意訳してみましょう。実に残念なのは、私の手もとに浦上の地図がないことで、地図がないと、この三師団と海軍の包囲網がハッキリ分りにくいのですがね。
 寛永十二年(であろう。他の次兵衛追跡に関する記録の年月日からみて、そう見るのが正しいようだ。西暦一六三五年)八月、次兵衛が浦上に隠れていると密告する者があって、長崎奉行は四辺の諸藩とレンラクして捜査中、大村領戸根村脇崎の塩焼き(俗に釜司という由)が彼を山中にかくまっているという情報がはいった。そこで長崎の両奉行から城主に出動の命令があった。
 大村藩では、家老大村彦右衛門を大将に、家士の全員、諸村の代官所属の全員、小給、足軽、長柄の者は言うまでもなく、領内の土民に至るまで、武士も土民も十六歳から六十歳までの男を全部召集。よろしいですか。十六から六十までの領内の男の子の全員ですよ。そして残したのは、城内の番人と、諸町村の押えの者だけです。かくの如くに一藩の全員が出動しました。相手は金鍔次兵衛たった一人なんですがね。
 むろん、総指揮に当る長崎の両奉行所も全員出動。さらに、佐賀、平戸、島原の三藩も命令によって出動しました。
 そこで四藩二奉行所から出動した恐らく何万人という全員をもって、まず往還の通行を止め、半島の海から海に至る線を人垣でふさいでしまった。海と海の間の陸地といえば、今度原子バクダンの落ちたあたり若干の平地をのぞいて、道の尾の方も稲佐山の方も、山また山ですね。これを人垣でふさいだ。この人垣は一人一歩の間隔です。一人一歩の列で半島を横断する人垣によってふさいで、この列をくずさずに、ジリジリと半島の尖端、海の方へ追いつめて行く。夜になると、全員、一列のままピタリと止まり、止まった場所でカガリ火をたいて夜を明す。夜間に人員交替して、不寝番をたて、夜があけると、またジリジリと一人一歩の列をくずさず前進、夜にピタリと止まって、止まった場所でカガリ火。蛇やキリギリスは逃げられるが、ウサギやタヌキは驚いたろうなア。一人一歩の人垣を破らないと、ウサギもタヌキも海辺まで追いつめられてしまう。海の上は舟軍で封じていたのですね。こうして、実に三十五日という日数を費して、一人一歩の列をくずさずに遂に海岸線まで人垣が移動到達したが、次兵衛の姿はどこにもなかった。彼をかくまった小者の姿もなかった。
 彼に随行していた小者(塩焼きかね)与一郎という者は三十五日の山狩が終った後になって捕えられた。「とりにがしのバテレンの小者を山狩の人数の引き申し候あとに捕えられ候由、大慶に存候」西宗真が大村彦右衛門に手紙を書いてます。とりにがしのバテレンの小者を捕えて大慶至極という、まことにナサケない話ながら、金鍔次兵衛の神通力が当代を風靡した有様、目に見る如くでありましょう。
 次兵衛の活躍は一六三七年までつづきます。パジェスの記事によると、彼は一時は江戸へ逃れ、そのとき将軍の小姓に伝道してその何人かを改宗させた、とあります。どこへ逃げても忙しい先生で、単なる逃げ隠れということは全然やっていないようです。単なるモグラではなくて、夜はミミズク、フクロウ、コノハズクよりも活動的で、白昼もタヌキのようにヒルネしていたワケではなくて、実にもう、かかる神出鬼没の人生こそ何よりも彼の身についたものであるような、たしかに天才的な忍術使いの威風すら感じられるようですね。パジェスによれば「すくなくとも五百余名の切支丹が彼をかくまった容疑で死刑になった」そうであるが、そういう市井の人情に目をくれない魔王のような野性がありますな。その非モグラ的活動力は共産党のモグラ連よりもよほどアカぬけているね。たった一人を捕えるのに四ツの藩と二ツの奉行所の総員出動、三十五日不眠不休の包囲網というのは、日本にも、外国にも、あんまり例のないことではないでしょうか。
 彼もついに捕えられました。そのとき彼は戸町の谷間の中腹の横穴にひそみ、相も変らず夜ごとに信徒の間を駈けまわって伝道をつづけていたのです。戸町には当時ひところ外国船がついたこともあり、千人番所というものがあって、いわば長崎周辺で最も整備した探偵陣地であるが、その目と鼻の先の穴ボコの中で悠々住んでいたのですね。今は七八十尺の高さの石段を登り、更に三十尺ぐらい岩をよじて、その穴に到達できますが、当時は恐らく、キリたった断崖の中腹、百尺ぐらい岩をよじる必要があって、そこにケダモノ、鳥類ならぬ人間が隠れ住むということは考えられなかったのではないでしょうか。穴の内部は高さ七尺から三尺ぐらい、二十坪ぐらいはありましょう。中から長崎の海が目の下に、そして対岸は造船所あたりでしょうか。その穴の場所に立って下を見ると、地上百尺ぐらい、私はクサリにすがって登りましたが、昔はこの下方が断崖ではないにしても、やや登るのが不可能にちかい地形であったように思われるのですね。この下を金鍔谷と云って、その谷に今は道があり人家がありますが、当時は海に面した嶮しい谷で、その谷には人が踏み入ることがない秘境であったのかも知れない。この辺一帯は、今でも「金鍔」と土地の人々は申しています。ただし、次兵衛のことは、もう土地の人々は知らない人が多いようです。穴の中には地蔵が十七体ほどあって、土地の人は穴地蔵とか、穴弘法とか云ってます。浦上にも穴弘法というのがありますが、それとは違うのです。穴の中にサイセン箱があったので、私は二十円のオサイセンをあげてきました。
 一説では、彼トマス金鍔バテレンは天草島原の乱に参加し妖術を用いて幕府軍を悩ましたとありますが、彼は一揆の起る直前、一六三七年、太陽暦の十二月六日に、穴吊しという方法で死刑にされて死んでいます。私の希望的空想的執念にも拘らず、残念ながら、彼は島原の乱には参加不能。もっとも、その地の信徒と生前にレンラクがあったことは考えられる。けれども捕えられたのが六月十五日だそうで、島原の乱には全然関係がなかったでしょう。彼のひそむ穴が分ったのは密告によるもので、時をうつさず大包囲網をしき、彼はこの穴ボコで縛についたもののようです。
 彼の刑死した年に、長崎では、アウグスチノ会員のイルマンたちやおびただしい信徒が捕縛されているところを見ると、大先生とともに、彼の支配下の組織全部がやられたように思われます。私は金鍔神父の捕われた穴ボコの中にたち、海を見下して、感無量でしたよ。それは悲劇的ではなくて、牧歌的――いわば、彼だけは切支丹史上に異例な、切支丹西部劇というようなスガスガしくて無邪気で明るい牧歌的なものを私は考える。この穴ボコから長崎の港そのものは見えないが、それにつづく静かな海が見え、その海にひらけた谷間はきりたった断崖と緑におおわれていたであろう。朝夕も白昼も静かだったろうね。
 この谷に今では長崎の教会のカリヨンが海をわたってきこえてくるが、彼はこの風光やカリヨンの幻聴などが問題ではない充実した動物だったろう。野生のカモシカのような。
 なつかしい一匹のカモシカ神父よ。

          ★

 私が自分の目で見た戦災地のうちで、一番復興がはかどらないのは、宇治山田市。次が浦上であった。宇治山田の戦災はきわめて小部分にすぎないが、その小さな焼跡は全然と云ってよいほど復興していなかった。それは敗戦後の数年間、復興に必要な条件たる神宮の参拝客を失っていたせいであろう。
 浦上の方は所在の戦災工場が殆ど戦争用のものであるために復活せず、その工場人員の居住を要しなくなったせいもあろうが、土着の浦上町民の大多数が死亡したせいもあろう。土着民の多くは先祖伝来の切支丹で、昭和二十年に一万余名という浦上切支丹のうち、原子バクダンの一閃と共にその八千五百名を失った由。土着民の大部分を失ったのだから、復興がおそく、人家と人家の間や周辺に非常に多くの空地が目立ち、旅人の心を暗くさせる。
 私一人の特殊な感傷であるかも知れないが、私は浦上の運命については感慨なきを得ないのである。
 浦上は原子バクダンによって世界的な名所となったが、こういう異常な犠牲となる以前から、浦上は日本に於ける最も特殊な村落の一ツであった。私の十年前の旅行に於ても、浦上訪問は私の大きな関心事で、その土をふみ、農家の前に立つだけでも、なんとなく異様な思いが胸にさわぐのを押えることができないような気持であった。
 九州には隠れ
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング