安吾の新日本地理
長崎チャンポン――九州の巻――
坂口安吾

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)切支丹《キリシタン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)切支丹|伴天連《バテレン》
−−

 急行列車が駅にとまると、二人か三人の私服刑事らしき人物が車内の人物の面相を読みつつ窓の外を通りすぎる。私の終戦後の遠距離旅行はこの正月からのことであるから、こういう人物の駅々の影のような出迎えがいつごろから始まったのか知らないが、月を追うてこの出迎えが厳重に、どの駅でも規則正しく行われるようになってきた。
 これには無論それだけの理由があるに相違ない。まず共産党幹部の地下潜入、朝鮮戦乱や国際情勢の悪化につれて国外からの密入国や国内からの脱出などゝモグラ族の移動往復が相当ヒンパンであろうから、イヤでも交通の要所々々に目玉を光らせる必要があるのであろう。
 交通路の要所に関所をかまえて目玉を光らせるという方法は大昔からのことであるが、義経がどっちへ逃げたか、豊臣の残党がどうしたか、と云っても、その取締りは案外に無邪気なもので、草の根を分けてもという全国一丸の警察網を張りめぐらし、長年月にわたって徹底的に断圧、根絶を期したというのは現代に於ては昭和初頭に於ける共産党、過去に於ては切支丹《キリシタン》宗門があるのみであろう。
 切支丹の断圧は秀吉に始まったが、家康の晩年に於て強化された。彼が自分の手で辛うじて完成した徳川幕府というものを守るために、他の一切に対して示した猜疑、警戒というものは蟻の出入口もないほどの堅固なもの。鉄砲という新兵器への断圧などは序の口で、大きな河には橋を造らせず、渡し舟まで禁じるという警戒万全主義であるから、鎖国だとか切支丹宗門断圧は彼の主義政策の当然な一ツの結論。わが子親類縁者参謀功臣に至るまでまず一切を疑るということをもって政治の前提としているのだもの、外国勢力をトコトンまで国外追放にしたのは彼の統治方針の結論としては奇も変もない自然なことで、切支丹だからどうこうという、切支丹という宗教の内容に重点のある禁圧ではなかったであろう。秀吉の禁令の理由が日本は神国であるというような、多少は外国を異端視した国粋思想からの反撥があるのに比べて、家康の方は他の一切を疑り、進歩の一切を排するという警戒万全主義から発した当然きわまる処置の一ツにすぎなかったのである。
 だから秀吉の禁令は多分に感情的でもあるから、その激する時は甚しくても、一面に気まぐれで、例外も抜け道もあるけれども、家康の方は算術の答として割りだされたような無感情な結論で、気まぐれも例外も抜け道もない。鎖国、ならびに切支丹断圧。論争もいらん。理由も不要。ただ断乎たる禁令と、その徹底的な実施あるのみ、である。
 だから、信者は地下にくぐらざるを得ん。一方その指導者たる神父は、主としてマカオならびにマニラから日本に潜入する。潜入した神父はヨーロッパ人も多いけれども、日本の学林で一応の教義を学んだ後に国外へ脱走して、マニラやマカオで更に勉強し、修道士(当時これをイルマンという)とか、司祭(つまり神父、パードレである。これを当時バテレン“伴天連”という)に補せられて、さらに日本へ逆潜入する。つまり越境してモスコーへ逃げ、そこで共産主義の筋金を入れて日本へ逆に密入国するという今日の様相と変りはない。外国からの思想が断圧されれば、思想の如何を問わず、時代を問わず、こういう様相が現れるのは当り前のことであろう。
 家康の禁令後約三十年間にわたって、潜伏信徒と、これを指導するために潜入する神父の活動がつゞいたが、やがて潜入する神父も跡を断ち、表向き信教を奉ずる者もなくなった。もっとも、長崎周辺や天草等に、表面は仏教徒を装うて子々孫々切支丹を奉じた部落はいくつかあり、それらは明治維新となって信教の自由が許されてから公然たる信教を復活したが、その第一番目の復活が、浦上部落の隠れ切支丹であった。
 私がこの前に長崎を訪れたのは今からちょうど十年前であった。季節もちょうど今ごろであったろう。その年の十二月に太平洋戦争が始まったのだが、そのキザシは至るところに見ることができた。長崎港内の造船所のドックにはいりきれずに大きな図体を湾内に露出していたのは「大和」であったらしい。
 私はそのとき「島原の乱」を書きたいと思い、それを調べるためにあの地方を二週間ぐらいブラブラしていたのである。長崎では、毎日図書館に通って、そこにだけしかない郷土史料を筆写していた。「南高来郡一揆の記」だとか、そのほか三四そこで筆写したものを、戦争中にどこへどうしたか見失ってしまったのはバカげたことであるが、切支丹資料の主要なものはそのころたいがい集めておいたし、地図なども揃えておいた筈だから、と安心しきって、今度の旅行にでかけた。十年前にゆっくり滞在した長崎だ。新しく見聞する必要があるのは原子バクダンの跡だけだ。私はそう考えて、長崎の古本屋で若干の本を買ったりしたが、一番平凡な探し物を忘れていたのだ。
 私は家へ戻って長崎の地図を探した。島原も天草も五島も、参謀本部の五万分の一、二十万分の一、みんな揃っているが、長崎だけがないのだ。ない筈ですよ。私はようやく思いだした。長崎は要塞地帯だもの、五万分の一が手にはいらぬのは当然だったばかりでなく、通俗な市街図すら、当時は手に入れることができなかった。私は長崎の人に手製の地図を書いてもらって、それをタヨリに歩いていたが、諏訪神社のベンチに腰を下して長崎港を眼下に眺めつつその手製の地図を見ているときに憲兵につかまって訊問されたことがあった。そのことは覚えていたが、時勢の変った悲しさに、それが手製の地図だったのをすっかり忘れていたのであった。
 あのときは驚きましたよ。何事に驚いたかというと、その時まで海軍の憲兵というものを知らなかったから、セーラー服にツバのない水兵帽をかぶって、古風なキャハンをはいた坊やのふくらんだようなのが私を訊問にきたので、おどろいた。彼は私を自分の詰所へ連行した。詰所といってもボックスがあるわけではない。公園の中の自然の立木のようなのに電話器がつけてあって、それ以外には特別なものは何もない。私が調べられている時にも電話がかかってきた。それから判断すると、いたるところの山の上や中腹などにこういうカンタンな詰所だか見張所のようなものがあって、そこから対岸や左右の山中や市街を望遠鏡で見張りあって、お前のところの公園のベンチに変な奴が膝の上の紙と港を見くらべている、取調べよ、というように注意し合っているもののようだ。私の挙動に不審をいだいたのは、ここの詰所の彼ではなくて、どこか遠方の山中から望遠鏡で見張っていた誰かであったようである。
 地図禁制の地域で手製の地図を見ていた私は、当然相当な取調べをうけるだろうと覚悟をきめたが、彼は私の旅行目的をきいた上で、私の所持の包みを調べ、それが図書館で古い史料を筆写したノートであることを確かめると、ただちに釈放してくれた。私が今日に於ても日本の海軍には陸軍にない親しみを感じているのも、このセーラー服の憲兵が物分りがよくて人を頭から罪人視するような振舞いのなかったことに好感をもったのが理由の一ツであるかも知れない。
 私はこの憲兵の取調べをうけたのをよく記憶しており、それが地図を見ていたせいであることもよく記憶しておりながら、それが手製の地図であったことを忘れていたために、今に至るまで私の書庫には一枚の長崎地図もないことに気づかなかったのである。
 そのときの長崎旅行は島原天草の一揆の史料をあつめ、実地を見て歩くためであったが、空想癖の旺盛な私であるから、全然ムダなことに精を入れるのは、今も昔も変りがない。実に私が切支丹史の人物中で最大の興味をもっていたのは「金鍔次兵衛」という怪人物で、私が十年前の長崎旅行の後にまず第一に書いたのは彼の行蹟についてであった。
 古来から切支丹|伴天連《バテレン》の妖術という。伴天連はパードレ、神父の意。新教の牧師に当る。彼らは布教の始めに当って、客寄せというような意味で手品などもやったようだ。新教では奇蹟を説かないが、旧教では神の奇蹟を認めるから、その方便に手品を用いるようなこともあったらしい。それでバテレンの妖術ということは、はじめから言われていたもののようであり、また、当時の日本の習慣にはない獣肉を食用し葡萄酒をのむから、人間の子供の生き血をのんでる等という噂もあった。そして物語の本には切支丹バテレン妖術使いウルガン伴天連。身の丈一丈二尺などゝ多くの怪人物が現れているけれども、そして、それが実在のバテレンの名に相違ないが、いずれもバテレンが酒顛童子のように人肉を食うというような架空な物語にすぎない。
 正しい史実に「切支丹バテレン妖術使い」という名と行蹟をハッキリと残している人物はたった一人しか居ないのである。この人物を「金鍔次兵衛」という。その珍妙な名は物語の中の架空の人物のようであるが、却々《なかなか》もって、そうではない。外国側の記録にも、大村藩の記録にも破天荒の彼の行蹟がハッキリ記されており、のみならず彼が捕縛されたところには「金鍔谷」という地名が残り、長崎の地図が手もとにないから、正しい町名なのか、昔からの通称にすぎないのかは分らないが、長崎港外の戸町へ行って「金鍔」ときけば直ちに通じる通り、彼の足跡は今も明確にその所在を残しているのである。そこの山腹に現存する横穴の中で、彼は捕えられたのである。
 地下へもぐった共産党の幹部にくらべると、金鍔次兵衛の方がシンパも少く、(彼の活躍した時はすでに切支丹の衰亡に近づきつつある時であった)レンラク、レポの組織なども甚だ幼稚であったばかりでなく、後日の彼は長崎を中心とする信徒の最も重要な支配者であり指導者でもあり、逃げ隠れが能ではなくて、最も積極的な街頭進出に、指令に、慰問に、ミサに明け暮れしたのであるが、実に数万人の捜査網をくぐり、九州から江戸の間を股にかけて七年間というもの日本中を騒がしたのである。
 彼の生い立ちは日本側には不明であるが、パジェスによれば、ウオマリ(該当する日本の地名不明)の生れ、父はレオ小右衛門、母はクララ・ボキアイ(落合かも知れん)。この両親はともに殉教者だそうだ。彼はその子供でイヨヒョーエ(日本の記録は次兵衛、または次太夫)という。彼は有馬の学林で育てられた。彼は語学に天才があって、彼の話す完全なラテン語にはヨーロッパの神父も感心したという。二十歳のとき宗教的な地位をうるためにフィリッピンに行きたいと思ったが、一六二二年に至ってはじめて同地に行くことができた。一六二三年十一月二十六日、管区長フライ・アロンゾ・デ・メンチェダ神父によって修道服を与えられ、誓願を立てた後、ドン・フライ・ペテロ・デ・アルセによって司祭に補せられた。日本の記録では「切支丹バテレン妖術使いの張本人金鍔次兵衛」であるが、教会の記録では、トマス・デ・サン・アウグスチノ神父という。
 一六三〇年(寛永七年)二月二日フィリッピンより船出して、マリベレス島で難船したが、彼は奇蹟的に助かり、首尾よく日本潜入に成功した。これより日本に於ける神出鬼没の大活躍がはじまるのであるが、彼の足跡をうかがうに、道なき山野をわけ岩をよじ水をくぐり、その運動神経たるや怖るべきものがあったろうと思われる節が多い。マリベレス島で難船して奇蹟的に助かったという一節によっても、水泳なども甚だ達者であったように思われますね。
 彼の属するアウグスチノ会のグチエレス長老が、その前年に捕えられて入牢《じゅろう》しておったが、まず次兵衛は竹中|采女《うねめ》の別当に雇われることに成功した。竹中采女は長崎奉行であり、切支丹断圧の総元締のようなものだ。次兵衛はまんまとこの別当になり、自由に牢内に出入して、グチエレス長老の指図を仰いで伝道に奔走し、自分の乏しい給料で長老に食物を運んでいた。グチエレスは性格の甚だ温和な人らしく論
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング