切支丹が多かったが、そのうちで最も有名なのは浦上であった。それは主として、切支丹の子孫のうちでここが最初に復活したせいであろう。また四回にわたる浦上崩れというものがあって、切支丹信仰がまったく地下に隠れて後に四回も信仰が露顕し、四回目には村民の殆ど全部の三千余名が諸藩に分散入牢せしめられて棄教をせまられた。明治二年のことであった。そんな根強い地下信仰の歴史もあって、諸方に隠れ切支丹があるうちで、浦上だけは特に一般に名を知られ、その代表のようなものだ。長崎市民は浦上切支丹を「クロ」とよんで白眼視していたものだ。「クロ」はクルス(十字架)からきたというが、本当かね。とにかく決して善意をこめて呼ぶ名ではないね。本来は隠れ切支丹をさして「クロ」とよぶということだが、しかし十年前に私が長崎の二三の市民にききただしたところでは、
「浦上がクロですと」
 というような返事で、浦上の切支丹をクロとよぶものだと心得ていたようだった。異教徒から見れば、浦上は特別の切支丹地帯で、別人種的にも思えたかも知れん。私が十年前に浦上の土をふんだだけで、また、農家の内部をチラと見ただけで、何か胸に騒ぐ感慨を押えがたかったのは、それもやっぱり異境にさまよう妖しさが胸底にあったせいであろう。
 日本に切支丹の子孫がいる。それは表面仏教徒を装いながら祖先伝来の切支丹の信教をつづけているはずだ、ということは、外国の宣教師が概ね予想していたことである。新井白石が政治をやってる時に潜入したヨワン・シローテもそういう子孫の実在を信じてのことであった。元治二年(一八六五年)に大浦天主堂が落成した。これは在留の外国人のためのもので、日本人に伝道しては相成らんという約束のものであったが、外人神父の肚の中では、切支丹の子孫がどこかに隠れているはず、いつかはそれを突きとめたい、名乗りでてくれないか、というひそかな願いが第一であった。
 すると浦上の村民が十五人ばかり天主堂の見物のフリをしてやってきて、他の見物人の去った時を見すまして、プチジャン神父にちかづき、私たちはあなた様と同じ心であります、と云って名乗りでた。それが一八六五年三月十七日であったという。これが隠れ切支丹復活の日だ。その時以来、浦上切支丹の多くは信教の復活に酔っぱらったとでも云うべきか、実に非常に亢奮したもののようだね。彼らの中の相当数の人々は農耕もうっちゃらかして、九州諸方の隠れ切支丹を嗅ぎ当てては、信教復活の遊説に、頼まれもせず手弁当で巡回して歩くような、悪く云えば宗教タンデキ家的な世話好きが続々現れたようだ。復活切支丹の先覚たる光栄に酔っぱらったとでもいうのか、山野を忍び歩き人目を怖れ怯えつつ、よその村のイロリ端で神の教えを一席ぶって宗論をたたかわせ説服するのがイヤ面白くてたまらん、というゾッコン打ちこんだ楽しそうな様子がアリアリ見えるようだね。浦上切支丹史でもよんでごらんなさい。アリアリ見えますよ。その後この村からは神父になって説教を本職にする人がたくさん現れた由だが、復活後のソモソモの気風がそうだから当り前の話さ。
 そこで諸村の隠れ切支丹がみんな改めて洗礼をうけて正式のカトリック教徒に復活したかというと、そうではないから、おもしろい。
 新しい切支丹のお祭の方法はオラガ村の祖先伝来のやり方と違う。オラガ村の方のが正統派で、新しいやり方に改めた者はインチキだ。祖先伝来の正統な教えを忠実にまもっているのはこのオラガ村だぞ、と云って、威張り返って、今日に至っても、てんでローマ法王のカトリックを相手にしない部落がタクサンある。それは全部長崎県に限られているけれども、二十数ヶ村あるそうだね。たしか浦上の一部にもオラガ村の先祖伝来の正統を主張してホンモノのパッパ様(法王)のカトリックをてんで受けつけない部落があったようだ。復活切支丹の連中はこのガンコ派を「はなれ」と呼んでいる。ブラジルの神道連盟のようなものさ。日本人の在るところ、切支丹であろうと、日本神道であろうと、共産主義であろうと、ホンモノ以上の絶対正統派や、絶対不敗派が必ず存在して、力み返っているものらしいや。ガンバレ。ガンバレ。先祖伝来のパッパ様や、先祖伝来の天皇様や、先祖伝来のコミンフォルム様がついてらア。
 十年前に私が浦上の地をふんだとき、それは「火の消えたような」とでも申しましょうか、私がそこに感じたのは孤絶した哀れさ、オドオドした悲しさでした。そのとき彼らは、いつの時代よりも白眼視されていたのかも知れませんね。捕吏を敵とする時代はあったが、こんなに民衆を敵にした時代はなかったのではあるまいか。彼らが一切の上にいただく天にまします父は、日本の頭上の天にではなくて、西洋の頭上の天にまします。先祖代々日本の地上に住んではいても、彼らは日本の天の下には住んで居なくて、西洋の空の下に居り、つまり彼らは精神的な異人だというような白眼視であった。私に「クロ」という呼称の存在を教えてくれた長崎市民の一人は、明らかにそう考えていたようだし、浦上の人家や山河には、その異人視を百倍も強く感受してオドオドと孤絶しているような住民たちの悲しさが至るところに沁みついているように感じられたのである。
 私はまた他の一日、大浦の天主堂を訪ねて行った。それは長崎の図書館長が、島原の乱について教会側の記録をまとめたパンフレットが大浦の天主堂からでていますから、それをもとめなさい、と教えてくれたからである。
 ところが応待に現れた日本人の神父さんは顔色を失うぐらいに狼狽して、そんなものは出版したことがありません、そう云いながらソワソワと足もとが定まらないような様子にさえ見えた。
「私は図書館で実物を見てるんです。近年でたばかりで、定価五銭と印刷してあったかしら。非売品となってましたかしら」
 彼は泣きそうになって、
「二十年ぐらい前に、そんなものが出たようなことがあったかも知れませんが、イエ、そういうものには、全然心当りがありません」
「ぼくは怪しい者ではありません。島原の乱を小説に書きたいと思って史料を探している文士ですが」
 と名刺をだしても、まるで名刺に悪魔が宿っているように目もくれないし、手をだそうともしなかった。甚しくおびえきった様子であった。私自身この町でセーラー服の憲兵に誰何《すいか》されたばかりの身であるから、人々からの異人視を百倍も強く感じているに相違ない彼らの気の毒な立場を理解するにヒマはかからなかったし、同感もできた。しかし、そのパンフレットが本当に欲しくって仕方がないのだから、実にウンザリもしましたよ。
 彼が私を警察か何かの者だと思いこんでいるのはハッキリしていた。自分たち信者以外の全ての者が敵に見え、自分たちをおとし入れるいろいろな怖しい陰謀をめぐらす者に見えるのであろう。そのオドオドと孤絶した哀れさは、浦上の人家や山河にまで、同じような暗い陰が至るところに落ちてしみついているように見えたものだ。
 その浦上に原子バクダンが落ちたと知った時には、私はまったくアッと思ったまま、しばしは考えることが途切れてしまいましたよ。しかも浦上の天主堂のすぐ真上ちかくでバクハツしたというのですから、運命のイタズラにしても全く二の句がつげなかったのは当然でしたろう。
 日本の地上に住んではいても彼らの天は日本の天ではないのだという異教徒の白眼視が百倍も強く彼らの身に感受されていたはずでした。私はその悲しさを浦上の人家や山河や樹木や畑の物にまで感じたのだもの。人の白眼視を百倍も強く感じているということは、それが彼らの意志や本心ではなくとも、彼らが自然に日本の空よりも、よその空の中に、自分の空を見るような現実が生れるに至るだろうということを、私がいつからか確信するようになっていたとしてもフシギではありますまい。人が疑るように、自分が似てくるね。人は弱く悲しいものですよ。
 彼らが自分の空だと思ってみたりしたこともある空の中から飛んできた飛行機が、彼らの天主堂の上で原子バクダンを落した。私が最初の一瞬に考えたのは、そういうことでした。それは私の思い違い、思い過しであるかも知れませんが、しかし、私が最初の一瞬にハッと思ったことは、とにかく、そういうことだったのです。そして、その原子バクダンが私の頭上にも落ちたのか、否、その原子バクダンを落した奴が私自身だったのか、何がなんだかワケが分らないような、奇妙キテレツな気持でしたよ。
 私はどうしてだか、大浦の天主堂のあの日本人の神父さんを今でもアリアリと覚えていますよ。身長も高いが、ふとってもいましたね。黒い僧服をきて、僧院の階段を走り降りて現れてきましたね。そのときだけは元気で無邪気でしたのに。大浦の天主堂は原子バクダンの被害をそう蒙らず、今は改装の手入れ中でしたが、彼が今もこの僧院にいるなら、否、どこの僧院で、どこの路上で彼に再会しても、私はただちに彼を確認できます。長い顔でしたが頬の肉が豊かで、たるんでいるような坊やじみた顔で、たしか鉄ブチの眼鏡をかけていたと思います。
 私は今回、長崎へ行き、浦上の原子バクダンのバクハツ中心地から、浦上の天主堂の廃墟へと登りました。天主堂の丘は庄屋の屋敷跡だそうですね。この庄屋は浦上切支丹の召捕や吟味には先に立って手伝い、踏絵をやらせ、流罪を申渡したりしたのもこの丘の上の庄屋の屋敷でやったことだそうですね。
 浦上切支丹はその悲しみの丘を買いとって天主堂をたて、彼らの聖地としたのでしたが、それがさらに天地の終りとも見まごうような悲しみの丘に還ろうとは。
 爆心地の記念館には、昭和二十四年度訂正として、
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死者(検視済ノモノ) 七三、八八四名
行方不明        一、八八七名
重軽傷者       七六、七九六名
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とありました。
 また、天主堂の廃墟の建札には、浦上の信徒一万余名、死者八千五百名とありましたよ。死者の全数にくらべれば一割強にすぎないが、信徒にしてみれば危く全滅をまぬかれたような惨状ですね。
 天主堂の丘から四方を見ますと、小さな家がマンベンなく建ってはいますが、どの家の周囲にも目立つのは樹木のない空地の広さばかりですよ。それは一見して旅人の心を暗く重くさせますね。
 しかし、私はその丘の上に立ちつつあるうちに、私の心がだんだん明るくなるのに気がつきました。それはね。十年前には甚しく異境のような感じがした浦上の土が山河が、生き残りの樹木もなく冷めたい土の肌を寒々露出しながら、今度はバカバカしいぐらい親しみのあるなつかしいものに感じられたのですよ。
「もう、誰も、クロと云う人はいないだろう」
 クロという言葉を私に教えたり、その意味を云ってきかせたりした男の顔も女の顔も思いだす必要すらもないことだ。
 すぎた悲しみというものは問題にする必要がないものだね。ここに一つの新しい温いものが天から降って住みついてるよ。もう誰もクロなんて言葉を云う必要がないし、そんな言葉の存在すら、なくなったなア。悲しみは、すでに、つぐなわれているよ。そして、この丘の上の空は誰の空でもなくて、実に明るい空だなア。
 浦上は、もう明るいし、もう暗くならないのだな。
 私が浦上の天主堂の丘の上で発見した新しい地図はそれだけでしたよ。

          ★

 長崎の市街は金比羅山のおかげで助かったのですかね。とにかく山の端を外れた長崎駅や大波止の方、県庁などの少数の建物がいくらの幅もない一本の直線型に焼けただけで、長崎市のほぼ全部は昔ながらに、そっくり健在でした。
 十年前に長崎へ行ったときは、大浦天主堂の真下のイーグルホテルというところに泊りました。なぜかというと、長崎旅行の手引きをしてくれた長崎出身の人が、長崎で一番特徴があるのはこの旅館かも知れませんよ、と云って紹介状をくれたからだ。
 ここは外国のマドロス専門の旅館であった。それも、そう上等ではないマドロス相手らしいね。けれども当時は外国船の長崎入港ということが殆どなくなった時であるから
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