クダンにやられもせずに厳としてありますな。公娼というものは今はない筈のタテマエであるから、今の丸山のお蝶さん方は糸川がパンパンならば同じように丸山のパンパンと云うべきであるらしいが、否々々。断々乎として何百万遍も否である。長崎に於ては断乎としてパンパンは居りませんぞ。これが長崎のよいところですな。長崎の丸山は、常に永遠に絶対に長崎の丸山であって、他のいかなるものでもないですぞ。パンパンではないかと。かのお蝶さんをパンパンであると云うたことが誰一人もなかった如くに、丸山の現今のお蝶さん方がパンパンであると云う人は在りうべからざることですぞ。
そういうワケで長崎にはパンパンが絶対に居ないのである。こういうところは実に長崎的々ですよ。黒船時代に於ける開港場長崎の丸山の女性が、今日の世態風俗に照り合して元公爵夫人に似ているか、映画女優に似ているか、女事務員に似ているか、婦人警官に似ているか、女学生に似ているか、と云えば、そのどれよりもパンパンに似ているらしく思われるが、そんな思弁は長崎では通用しないね。丸山は現代の物ではないですわ。よってパンパンではないです。長崎には怪しき新製品の如きものは
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