、あるいは営業を休んでいるかも知れんが、この紹介状があれば休業中でも泊めてくれますよ。マドロス宿屋の壁や寝台にしみ残った流浪者たちの無頼ながらも悟りきった謎のような独り言でも嗅ぎだしてらっしゃい。壁際によせてある毀れたイスだのヒキダシの中の誰かが捨てて行ったパイプなどが急に何か話しかけてきかせてくれることが有るかも知れないものですよ、というような話であった。
 まさしく休業状態で、七十ぐらいの脚の悪いラテンともユダヤともつかないような小柄な老人が、たった一人下宿しているだけであった。私の案内されたのは、幅が二間半ぐらいに、奥の深さが五間ぐらいもあるような実に殺風景な部屋さ。途方もなく大きなダブルベッドがあって、西洋の中学生の勉強用に適当のような机があった。そして、たしかに、使用にたえないイスが一つ壁際によせてあったね。
 部屋へ案内してくれたホテルの娘さんが、陶器の大きな水差しに水をいれて持ってきて、鏡の載っかってる台の上においてあった陶器の大きなカナダライのようなものの中へ、水差しの水をジャーボコボコと半分ぐらいつぎこんで立ち去った。
 巴里《パリ》の屋根裏の映画かなんかに、たしかに
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