の姿もなかった。
 彼に随行していた小者(塩焼きかね)与一郎という者は三十五日の山狩が終った後になって捕えられた。「とりにがしのバテレンの小者を山狩の人数の引き申し候あとに捕えられ候由、大慶に存候」西宗真が大村彦右衛門に手紙を書いてます。とりにがしのバテレンの小者を捕えて大慶至極という、まことにナサケない話ながら、金鍔次兵衛の神通力が当代を風靡した有様、目に見る如くでありましょう。
 次兵衛の活躍は一六三七年までつづきます。パジェスの記事によると、彼は一時は江戸へ逃れ、そのとき将軍の小姓に伝道してその何人かを改宗させた、とあります。どこへ逃げても忙しい先生で、単なる逃げ隠れということは全然やっていないようです。単なるモグラではなくて、夜はミミズク、フクロウ、コノハズクよりも活動的で、白昼もタヌキのようにヒルネしていたワケではなくて、実にもう、かかる神出鬼没の人生こそ何よりも彼の身についたものであるような、たしかに天才的な忍術使いの威風すら感じられるようですね。パジェスによれば「すくなくとも五百余名の切支丹が彼をかくまった容疑で死刑になった」そうであるが、そういう市井の人情に目をくれない
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