下げ]
死者(検視済ノモノ) 七三、八八四名
行方不明        一、八八七名
重軽傷者       七六、七九六名
[#ここで字下げ終わり]
とありました。
 また、天主堂の廃墟の建札には、浦上の信徒一万余名、死者八千五百名とありましたよ。死者の全数にくらべれば一割強にすぎないが、信徒にしてみれば危く全滅をまぬかれたような惨状ですね。
 天主堂の丘から四方を見ますと、小さな家がマンベンなく建ってはいますが、どの家の周囲にも目立つのは樹木のない空地の広さばかりですよ。それは一見して旅人の心を暗く重くさせますね。
 しかし、私はその丘の上に立ちつつあるうちに、私の心がだんだん明るくなるのに気がつきました。それはね。十年前には甚しく異境のような感じがした浦上の土が山河が、生き残りの樹木もなく冷めたい土の肌を寒々露出しながら、今度はバカバカしいぐらい親しみのあるなつかしいものに感じられたのですよ。
「もう、誰も、クロと云う人はいないだろう」
 クロという言葉を私に教えたり、その意味を云ってきかせたりした男の顔も女の顔も思いだす必要すらもないことだ。
 すぎた悲しみというものは問題にする必要がないものだね。ここに一つの新しい温いものが天から降って住みついてるよ。もう誰もクロなんて言葉を云う必要がないし、そんな言葉の存在すら、なくなったなア。悲しみは、すでに、つぐなわれているよ。そして、この丘の上の空は誰の空でもなくて、実に明るい空だなア。
 浦上は、もう明るいし、もう暗くならないのだな。
 私が浦上の天主堂の丘の上で発見した新しい地図はそれだけでしたよ。

          ★

 長崎の市街は金比羅山のおかげで助かったのですかね。とにかく山の端を外れた長崎駅や大波止の方、県庁などの少数の建物がいくらの幅もない一本の直線型に焼けただけで、長崎市のほぼ全部は昔ながらに、そっくり健在でした。
 十年前に長崎へ行ったときは、大浦天主堂の真下のイーグルホテルというところに泊りました。なぜかというと、長崎旅行の手引きをしてくれた長崎出身の人が、長崎で一番特徴があるのはこの旅館かも知れませんよ、と云って紹介状をくれたからだ。
 ここは外国のマドロス専門の旅館であった。それも、そう上等ではないマドロス相手らしいね。けれども当時は外国船の長崎入港ということが殆どなくなった時であるから、あるいは営業を休んでいるかも知れんが、この紹介状があれば休業中でも泊めてくれますよ。マドロス宿屋の壁や寝台にしみ残った流浪者たちの無頼ながらも悟りきった謎のような独り言でも嗅ぎだしてらっしゃい。壁際によせてある毀れたイスだのヒキダシの中の誰かが捨てて行ったパイプなどが急に何か話しかけてきかせてくれることが有るかも知れないものですよ、というような話であった。
 まさしく休業状態で、七十ぐらいの脚の悪いラテンともユダヤともつかないような小柄な老人が、たった一人下宿しているだけであった。私の案内されたのは、幅が二間半ぐらいに、奥の深さが五間ぐらいもあるような実に殺風景な部屋さ。途方もなく大きなダブルベッドがあって、西洋の中学生の勉強用に適当のような机があった。そして、たしかに、使用にたえないイスが一つ壁際によせてあったね。
 部屋へ案内してくれたホテルの娘さんが、陶器の大きな水差しに水をいれて持ってきて、鏡の載っかってる台の上においてあった陶器の大きなカナダライのようなものの中へ、水差しの水をジャーボコボコと半分ぐらいつぎこんで立ち去った。
 巴里《パリ》の屋根裏の映画かなんかに、たしかに何回も見た覚えがありますよ。人を殺した男かなんかが、血だらけのナイフをこの台の上へおいて、水差しの水をジャーボコボコとこの陶器のカナダライ的なものへ半分ぐらいついで、血だらけの手をさしこむ。水がサッと血で黒くなるというような、そんな映画がよくあるでしょうが。ウーム。なるほど、マドロス宿か。長崎的々はこれであるな、と大感服致したものさ。
 このホテルは、もう、なくなっていたようでしたね。ここの主人は、たしか伊野(?)さんとか仰有ったかな。親切な人で、郷土の地理歴史につまびらかに、私の調査旅行に有益な教示や助言を与えてくれた。こういう長崎的々な、否、全然日本ばなれのした外地の安宿そのまま的の存在がいつまでもこの町にあるということは、物好きな旅行客には有難いことなんだが、復活しませんかね。
 長崎の市街は意外にもエキゾチックなところが少くて、一番異国的なのは、大浦天主堂の裏手の丘の居留地、緑につつまれた古風な洋館地帯だけでしょうかね。オランダ坂というのは、たぶんここへの登り道を云うのだろう。イーグルホテルに泊っていた時は、近いせいもあって、時々そこを散歩しました。
 長崎は殆ど火事がなかった
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