魔王のような野性がありますな。その非モグラ的活動力は共産党のモグラ連よりもよほどアカぬけているね。たった一人を捕えるのに四ツの藩と二ツの奉行所の総員出動、三十五日不眠不休の包囲網というのは、日本にも、外国にも、あんまり例のないことではないでしょうか。
 彼もついに捕えられました。そのとき彼は戸町の谷間の中腹の横穴にひそみ、相も変らず夜ごとに信徒の間を駈けまわって伝道をつづけていたのです。戸町には当時ひところ外国船がついたこともあり、千人番所というものがあって、いわば長崎周辺で最も整備した探偵陣地であるが、その目と鼻の先の穴ボコの中で悠々住んでいたのですね。今は七八十尺の高さの石段を登り、更に三十尺ぐらい岩をよじて、その穴に到達できますが、当時は恐らく、キリたった断崖の中腹、百尺ぐらい岩をよじる必要があって、そこにケダモノ、鳥類ならぬ人間が隠れ住むということは考えられなかったのではないでしょうか。穴の内部は高さ七尺から三尺ぐらい、二十坪ぐらいはありましょう。中から長崎の海が目の下に、そして対岸は造船所あたりでしょうか。その穴の場所に立って下を見ると、地上百尺ぐらい、私はクサリにすがって登りましたが、昔はこの下方が断崖ではないにしても、やや登るのが不可能にちかい地形であったように思われるのですね。この下を金鍔谷と云って、その谷に今は道があり人家がありますが、当時は海に面した嶮しい谷で、その谷には人が踏み入ることがない秘境であったのかも知れない。この辺一帯は、今でも「金鍔」と土地の人々は申しています。ただし、次兵衛のことは、もう土地の人々は知らない人が多いようです。穴の中には地蔵が十七体ほどあって、土地の人は穴地蔵とか、穴弘法とか云ってます。浦上にも穴弘法というのがありますが、それとは違うのです。穴の中にサイセン箱があったので、私は二十円のオサイセンをあげてきました。
 一説では、彼トマス金鍔バテレンは天草島原の乱に参加し妖術を用いて幕府軍を悩ましたとありますが、彼は一揆の起る直前、一六三七年、太陽暦の十二月六日に、穴吊しという方法で死刑にされて死んでいます。私の希望的空想的執念にも拘らず、残念ながら、彼は島原の乱には参加不能。もっとも、その地の信徒と生前にレンラクがあったことは考えられる。けれども捕えられたのが六月十五日だそうで、島原の乱には全然関係がなかったでしょう。
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