原の三藩も命令によって出動しました。
 そこで四藩二奉行所から出動した恐らく何万人という全員をもって、まず往還の通行を止め、半島の海から海に至る線を人垣でふさいでしまった。海と海の間の陸地といえば、今度原子バクダンの落ちたあたり若干の平地をのぞいて、道の尾の方も稲佐山の方も、山また山ですね。これを人垣でふさいだ。この人垣は一人一歩の間隔です。一人一歩の列で半島を横断する人垣によってふさいで、この列をくずさずに、ジリジリと半島の尖端、海の方へ追いつめて行く。夜になると、全員、一列のままピタリと止まり、止まった場所でカガリ火をたいて夜を明す。夜間に人員交替して、不寝番をたて、夜があけると、またジリジリと一人一歩の列をくずさず前進、夜にピタリと止まって、止まった場所でカガリ火。蛇やキリギリスは逃げられるが、ウサギやタヌキは驚いたろうなア。一人一歩の人垣を破らないと、ウサギもタヌキも海辺まで追いつめられてしまう。海の上は舟軍で封じていたのですね。こうして、実に三十五日という日数を費して、一人一歩の列をくずさずに遂に海岸線まで人垣が移動到達したが、次兵衛の姿はどこにもなかった。彼をかくまった小者の姿もなかった。
 彼に随行していた小者(塩焼きかね)与一郎という者は三十五日の山狩が終った後になって捕えられた。「とりにがしのバテレンの小者を山狩の人数の引き申し候あとに捕えられ候由、大慶に存候」西宗真が大村彦右衛門に手紙を書いてます。とりにがしのバテレンの小者を捕えて大慶至極という、まことにナサケない話ながら、金鍔次兵衛の神通力が当代を風靡した有様、目に見る如くでありましょう。
 次兵衛の活躍は一六三七年までつづきます。パジェスの記事によると、彼は一時は江戸へ逃れ、そのとき将軍の小姓に伝道してその何人かを改宗させた、とあります。どこへ逃げても忙しい先生で、単なる逃げ隠れということは全然やっていないようです。単なるモグラではなくて、夜はミミズク、フクロウ、コノハズクよりも活動的で、白昼もタヌキのようにヒルネしていたワケではなくて、実にもう、かかる神出鬼没の人生こそ何よりも彼の身についたものであるような、たしかに天才的な忍術使いの威風すら感じられるようですね。パジェスによれば「すくなくとも五百余名の切支丹が彼をかくまった容疑で死刑になった」そうであるが、そういう市井の人情に目をくれない
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