相当つづくらしいから、そのうちに外輪山を破って海へ向って流れはじめるかも知れない。すでに、その時にそなえる用意は完了したそうだ。むかし、スベリ台というのがあったね。外輪山から海へかけては全島ジャングルであるが、間伏の方だけ不毛の砂丘が四百米ぐらい垂れさがっていました。そこへスキー回転競技式の曲線型にレールをしいてオモチャの自動車にお客をのッけてアッというまにすべり降りる仕掛けがあった。私もそれを用いて降りたことがあったが、あんまり、よその大人はそのような降り方に愛着がないらしく、スベリ台で間伏の方へ降りようというヒマ人の姿を見かけなかったものさ。物好きのアベックでもやらんという実に色気のないものだったね。いまや往昔私のようなバカモノを滑り降した代りに、この不毛の砂丘へ熔岩を落下させようという計略だそうだ。熔岩はまんまと計略にかかって定めの通路を落ちるだろうという予定だね。十年前の私のように。
いま御神火茶屋から火口へ行くには、熔岩原を横断するわけにいかないから、外輪山と押しよせた熔岩の間に幅十米ぐらいのスキ間が残って谷をなしてるところを迂回して行くのであるが、大廻りだし砂の道だし、急いでも片道一時間かかるそうだね。私は行けなかった。視界二、三米という物凄いモヤにまかれて、とても歩かれない。おまけに熔岩原をわたってくるモヤだから人肌のように生あたたかいや。ちょッとゾッとしますよ。このモヤも火山の一味で、火山と同じように怪しき活動を行う魔物のような気がしたね。アッというまにベールをかけられ、モヤモヤと襟クビへ、フトコロへと忍びこまれて、にわかに視界を失ってモヤの中にただ一人沈没している。おまけに目かくしした奴が生あたたかいのだから妖しい気持だね。ホウホウのていで熔岩の上から這い降りて、御神火茶屋へ同行の青年に尻を押されて這い登りましたよ。気の弱い話だが、まア熔岩原の上で生あたたかいモヤにまかれてごらんなさい。
しかし、その日、どんなにモヤが深かったかというと、翌朝八百トンの貨物船が元村西南方一キロぐらいの岩礁上に坐礁してチョコンと乗っかっていましたよ。モヤのせいだ。まだ陸には間があると思って全速で走っていたら、一つの岩礁を乗りこし、勢い余って次の岩礁に乗りあげて止ったそうだ。機関部に大穴があいたそうだね。大きな船が救助にきていた。観光船はノンキなもので、橘丸はちかづくハシケに目もくれず見物にでかけて行ったね。そこで乗客をマンサイしたハシケ舟は、とりのこされて、仕方なしに橘丸の御見物がすむまで波の上にブラブラ漂っていましたよ。陸上では見かけられないノンビリした風景でした。陸上のモラルや礼儀に関係なく、しかし、大自然に制約された秩序もユーモアもあるようでしたね。文明の発達によって生れた不自由さもあるな。その任にあらざるものが、いらざる首をつッこんだって邪魔になるだけさ。大海にはヤジウマの交通整理の必要もないや。板子の下は地獄だが、海とか空はノドカなものさ。たとえば、かの戦争という海空の連合軍に対してはタダの人間はもはや見物するより手がないというようなアキラメと天下泰平さ、と人類のサッソウたる退化状態がありましたな。
とにかく私にとっては、まの悪い日であった。全島霧につつまれて、時に五米、時に三百米ぐらいの見晴ししかない。とつぜん大噴火がはじまってもそれを見ることができない運命だから、なさけない。霧の火口に見切りをつけ、御神火茶屋から数百米のところに湯場と称して、自然噴出の蒸気を利用したムシブロがある。これを見物に行きました。岩をくりぬいた牢屋のようなところ。四囲は自然の岩盤で牢屋の格子戸と同じものが足の下に敷いてある。天の岩戸のような入口をしめると、足の下の格子の下から四十八度の蒸気が音もなく人間をつつむ。音もなく。これが気がかりな言葉だね。そこのオヤジらしい三十七八の詩人的人物が、私をシゲシゲと見て、
「坂口さんじゃないか」
とおどろく。どうも、その顔が思いだせない。彼は私の田舎の中学校の同級生で出版屋の番頭をやってる「ザト」という人物のことをきいた。私と彼の共通の友人がザトらしい。すると彼も出版か文学に関係ある人で、ザトを通じて私と一面識があったに相違ないのである。ヨシナリ君という人だった。
下山して土地の文学者に訊くと、
「ああヨシナリ君。あの人は大島生れではありません。奥サンが岡田の人で、タメトモ心を起しましてな」という話であった。内地から来た旅行者がアンコの情にほだされ、天下の大事を忘却して島に居ついてしまうのを「タメトモ心ヲ起ス」という由である。湯場の売店に働いていた彼の奥さんはやや美しく、さすがに甲斐性がありそうなアンコだったね。彼女はノドをつぶしていました。毎晩大島節を唄うせいさ。甲斐性があるのだね。島にはタメトモが多いそうだ。タメトモの暮しよいところらしいが、ヨシナリ君は特に優秀なタメトモらしいや。拙者もはやくタメトモになるべきであったな。常春の島に来て人生の秋を知る。モノノアワレとはこのことさ。
たしかに天下の大事を忘れる島らしい。そのなつかしいオモムキは全島にあふれているね。御神火茶屋に働いてる十六七の娘たちは眼下にせまる熔岩を見下しながら、熔岩がそこまで迫ってきた時は、ちょッと熱かったが面白くてたのしかったなどと言っていたね。全島をあげて山上へ見物にあつまり、かけがえのない自分の島の大噴火に老いも若きもウットリしたらしいな。
本日(五月二十三日)午後一時二十一分、遠雷のようなバクハツ音がきこえる。約三十分にわたって、断続する。私はいきなりペンを投げだして、洋服をきて、旅支度をはじめる。大島のバクハツに相違ない。伊東は川奈の岬が突きだして視界をさえぎっているから、すぐ目と鼻の大島が見えないのだ。朝日新聞の伊東支局へ電話をかけて大島バクハツかどうか問い合せたが、主人が不在で分らない。ぜひなく、古屋旅館へ電話をかけて、きく。古屋の主人が大島の東海汽船へ問い合してくれたが二十分もたつと大島の返事をきかせてくれましたね。こんなにカンタンに大島と通話できるとは知りませんでしたよ。大島ではバクハツらしいものは目下感じられません、という返事だとさ。ガッカリしましたね。こッちはすでに思いこんでいたのだから、キツネにつままれたように半信半疑ですよ。しかし、大島直々の御返事がそうなら、いかに信用したくなくとも仕方がないさ。
どうも寝ざめが悪いのさ。バクハツの実況を実見せずに大島を書くのが、まことに筆がすすまないのさ。どうせ書くからには、火口壁でバクハツにでくわし、熔岩に追っかけられてホウホウのていで逃げるようなあんまり利口な人のやらないことがしてみたいね。そういうことを賭けるのが、職業のタノシミというものですよ。すすまぬ筆をムリに動かしてる最中にバクハツ音をきいたから、即座に一人ぎめに思いこみ、にわかに勇みたち、空襲警報よりも慌てふためいて旅支度をととのえたね。バクハツにあらずと報知がきたときは、魂をぬかれたようなものさ。こういう意気ごみで出かけるときは、船酔いなんかしないものだね。拙者の文学のエネルギーはそのバカらしさで持ってるようなものさ。伊東から大島行の定期船は午前の八時半と十一時半にでる。午後は定期船がないから、漁師のチッチャな焼玉エンジンで大島へのりこむツモリであった。漁師のポンポン船は二年前からナジミなのである。五十米ぐらいの釣糸をぶら下げて全速力で走りながらたぐりよせると、相当大きな魚がぶらさがって現れてくるね。後に板をひかせて波のりをやったら、檀一雄があんまり勇みすぎて板とともに海中に逆立して網にはさまれ、あわや大事に及ぶところでありました。このポンポン船でも定期船とそう違わぬ速力で大島へ行くことができる。そのかわり、散々海水を浴びなければならない。そのためにレインコートを着て家をとび出そうとしているところへ、大島に於てはバクハツは感じていないそうですと古屋主人の落ちついた電話でした。
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東京から七時間、一ねむりのうちに。伊東からは二時間、橘丸だと一時間半でカンタンに行くことのできる大島が、風俗習慣がガラリと変っているというのが珍しい。内地を一昼夜特急で走っても、これほど風習の差のあるところはめったに見られない。
この変った風習のモトについて多少とも解説できればと思ったが、私の調べたところではとても見当がつかない。
富士山麓は三島の宿の三島明神は東海道では熱田神宮につぐ大社であり、熱田が皇神であるにくらべて、これは事代主《ことしろぬし》(また古からの別説では大ヤマズミノミコトともいう)を祀った日本土着の大親分が祭神なのである。
大昔に神様の一族が三宅島へきて伊予の三島神社を勧請したのを、さらに伊豆の白浜を経て三島へ勧請したものだという。途中に立寄った白浜は今の白浜明神がそれだということだ。これが三島神社の古伝だそうである。
伊予の三島神社というのは瀬戸内海の大三島(オーミシマ)の三島神社であろう。この祭神は大ヤマズミで三島神社の古伝と合っている。延喜式神祗巻では伊豆の三島神社、白浜の伊古奈比※[#「二点しんにょう+占」、第4水準2−89−83]命《イコナヒメノミコト》神社、ともに名神社であり奈良朝時代から朝廷の封戸をうけたというから三宅島から三島へ移ったのはずいぶん昔のことだ。だから古伝を信用すると、すくなくとも三宅島には奈良朝以前に大ヤマズミを祖神にいただく一族が土着したものらしい。しかしその一族の子孫が今日の三宅島島民かというと全部がそうでもなく、部落ごとに風習の異なるものがあるそうだし、いくつかの神社とその祭礼の在り方からみると、祭神を異にする異部落民がいつからか合議して村の秩序をつくっていたことは明かのようだ。そしてそれらの祭神は漂流した氏族のものではなくて流人系統のものかも知れん。
大島の土着民には三宅島のような古伝はない。役の行者が流島になったという伝説が一番古いのだろう。もっとも先住民族の遺跡はある。野増村では熔岩の下から人骨と縄紋土器と石ウスとヤジリなどが出たという。波浮中学校の坂口校長先生(偶然私と同姓)の話によると、元村に現存する藤井氏(赤門というね)が中世の移住で、相当の格式をもち、コードのヤブという祖神を祀って神官をつとめ、支配的な位置についていたという。しかし、差木地《さしきじ》と泉津にはそれ以前からの先住民がいたらしい。その先住民の移住の経路や時代は分らないが、三宅島が奈良朝以前なら、これもそれと同じようにみてよかろう。こういうことは、どうせハッキリ分りやしませんね。
クダクダしく分りもしない歴史をのべたが、要するに奈良朝以前からの原住民のそれと今の大島の特殊な風習と、どこまで関係があるかどうか、全然わからんというのが、私の考えなのさ。実にわが言はバカバカしいが、分らんものは、分らんですよ。
岡田村の民俗学者、白井さんや波浮の坂口校長先生の説では、大島はクゲの流人が多く京言葉が多く残っているという。村の長をスグリといったそうだ。氏族制度時代の古い言葉だね。クニノミヤツコ、アガタヌシ、村首《スグリ》などのスグリかね。座敷をデイ、寝室をチョーダイなどと云ったし、病気を「悲シイ」、病気ニナルが「悲シクナル」、尊トシヤ、だとか、大いに驚く時に「あな、うたてやな」と今も言うそうだね。上代から中世まで、各時代のミヤコ言葉が残っているのはすでに奈良朝時代からクゲの流人が七島へ送られた記録がハッキリしているのだから、うなずける。あなうたてやな、はタメトモかね。天下の豪傑が大島くんだりで用いた慣用句としては似つかわしくないな。各時代の流人が村民に影響力があったのは当然だろう。近代では徳川家康の侍女で朝鮮貴族出身のジュリヤおたアという切支丹《キリシタン》信徒の女性が家康の側女《そばめ》になることを拒否して大島へ流され、これも島民に影響を残している。差木地では娘の剛情を叱るに、今でも「このオタイサマめ!」
と叱るそうだし、泉津では、娘
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