があれをくれこれをくれと慾を云ったときに、
「このオタイサマめ!」
と叱るそうだね。すると、これはオタイサマにあやかれ、という意味ではなくて、そのアベコベの用法であるが、遠島になるほど強情を通したという驚異や感動が村民の心に残ったからのことで、用例が賞讃とアベコベだということにはこだわる必要もないだろう。
しかし、今日もなおアンコ風俗などに残っている大島島民の土俗の主流をなすものは、流人系統のものではない様だが、どうだろう。
大島の古い民家に特殊な型があって、それが野増村や差木地にかなり残っているというので、野増村へ行ってみた。着流しの村長さんの案内で、代表的な旧家を三四軒歩いた。妙な柱の使い方、すべて釘を用いない。土間の形、部屋の間どり、イロリ、棚などみんな在り場所や在り方がきまっている。志摩の漁村の民家も四方造りの独特なものだというが、私はそれを知らないから比較はできない。
しかしこうして古い村落を廻って、家の内部を見て目につくことは、旧家とよばれる家も特に大きい家ではなく、室内装飾も庭も殆ど大小なく、目立つような貧富の差が見られないということであった。だいたいに於て島の生活が、共産部落的であるのは、日本では普通の例である。島の村長《スグリ》は昔から選挙の習慣があったそうだし、網は共有であって特定の網元はなく、土地も共有であったという。もっともそれは維新までの話である。大島に伊豆半島の言葉がまじっているのは、近いのだから当然だが、志摩に似たところもあるようだ。そうかと思うと、海で働くのは男で、女は畑が専門だ。けっして海の仕事をやらないところはアマで名高い志摩の男女の生態とは全く相いれない。
私はむしろ風俗の主流をなしているものは沖縄に似た部分が他の類似よりも多いのじゃないかと思ったが、これとても比較的なものにすぎないし、私は沖縄の古い風俗には知識が殆どないのだから、私の推量も当にならない。アンコ風俗を白井氏は京風の転化という説明であるが、そうこじつけるよりも自然の類似を沖縄に見出す方が面倒がいらないね。私はそのうち沖縄の女の子をつれて大島へ遊びに行ってみようかと思っている。彼女らがアンコ風俗のどんなところに自分の類似を見出すか、ちょッと興味があるように思うね。
しかし、むろん沖縄と大島にはかなりの類似があるらしいというだけで、大島島民の主流が沖縄だときめるのは不可能なことだ。
坂口先生からきいた話だが、大島からのツバキ油売りと名のる行商人がきた時に、その真偽を見破るカンタンな方法があるそうだ。もっとも今では行商人となって島外へでる者は一人もないから、鑑定をまつまでもなく、みんなニセモノにきまっているそうだがね。
大島島民は「カキクケコ」を「ハヒフヘホ」に発音するのだとさ。柿の木が「カヒの木」、猫の子が「ネホの子」、筍が「タヘノコ」。但し接続する時だけで、字どまりの木や子は同じキでありコだそうだね。
三宅島には排外的な気風がやや目立つそうであるが、大島の人たちは、男女ともに明るくて、人みしりしなくて、親切である。どうも全般にわたってタメトモの住みよい島にできてるようである。野増村の着流しの村長は私が大島で会った人たちのうちで誰より無愛想でニコリともしない人物であったが、根は甚しく親切なようであった。実に気むずかしくムッツリしながら、しかし私の方が降参するほどもう一軒、もう一軒と念入りに案内してくれる。魚屋の前を通りかかると、にわかに店内へ声をかけて、
「さッきのアレ、こまかくしたかね。まだなら、東京の人に見せてくれないか」という。
「ヘエ、まだですよ」と魚屋が一家総出でとびだしてきて、妙なヘッピリ腰で怖る怖る奥からぶらさげて来て、見せてくれたのが、なるほど、これは怪物だね。私が怪物に近づこうとすると、魚屋が慌てて、
「オットット、手をだすと噛みとられますよ」
長さ一米ぐらいの怪魚「カキザメ」という私が見たことのない怪物です。サンショーウオを平たくしたような奴で、全身をマムシの斑紋の大きいようなのが覆い、陸上の動物には見られないトゲのような怖ろしい歯がゴシャ/\生えてますよ。魚屋の土間に腹ばいになって人間を睨みつけて、物凄い口をあき、食い殺すぞという殺気マンマンたる形相を示します。せいぜい一米ぐらい、一貫から三貫までぐらいの小さいサメだそうだが、こんな怖るべき形相の魚を見たのははじめてであった。肉はうまいということだ。なるほど、そうかも知れんと思ったね。第一、面魂《つらだましい》がなんとも物凄くて癪にさわるから、是が非でもモリモリ食ってやりたいと思うね。切身を買ってきて大いに食うべきであったよ。着流しの村長はこういう怪物をわざわざ見せようとする親切をもっていた。私がこの怪物に呆れていると、野増村の人たちまで怪物を珍しがって集ってきたから、島民にとっても見なれた怪物ではなかったようだ。
大島の学校では野球がはやっているらしく、通学にグローブやバットをたずさえている男の子が多い。一方、セーラー服の女の子が時々カバンを頭にのッけて椿の並木を歩いている。妙テコリンの対照は、ひどく大島的でもあるし、日本自体のカリカチュアのようでもあったね。
この島は流れる水も湧く水もないし、米もない。しかしそういう欠乏は島民の生活からは分らない。どの家でも牛を飼っているし道路の上で牛の乳を搾っている。有るものがひどく豊富に有るように目立つだけで、無いものが無いように目立たないのは、太古の人の如く大国主的に大らかで健全なんだろうね。
物資がないと云えば、痛快にないね、観光ホテルでは、お客が食べたいものを注文するとそれから買い出しに行くというノンビリしたものであった。さればとて旅客がそれで不自由を感じるわけでもなく、ちゃんとそれが出来上った生活があって、要するに旅だ。大島には、いろいろな物資だのネオンだの大島銀座、ハブ銀座などはないが、コルシカやタヒチのような旅があるね。コルシカやタヒチへ行ったことはないけれども、神経衰弱の文明人がたぶんそこで感じる旅と同じような何かを大島でも感じられるような気がするね。その旅は日本の温泉旅行とはまた違うものだ。豊富な食べ物がなければならんというものではない。その土地の限定の中へ旅人を限定する力のあるのが「旅」なんだね。つまり、旅行者というものを、常に一時的に自分のタメトモにするだけの何かが必要なのだね。メリメがコルシカに、ゴーガンがタヒチに見出した旅のような、何かが。まア、ゴーガンはタヒチのタメトモには相違ないが、しかしタヒチのゴーガンから我々が感じるものは、彼がそこで土人の女と結婚したというタメトモ的なことではなくて「旅」ですよ。大島には、とにかくそれがあるね。日本内地には長いこと汽車にのっても、なかなかそういうところはありません。とにかく名題の大ホテルにメニューがなくて、お客の注文をきいてから買だしにでかけて注文とちがった妙な牛乳料理を静々と運んできても、それが一向に苦にならず却ってなんとなく親しめるような「旅」というものを大島に於てやや味うことができるね。そして、村のアンコたちと外輪山で噴火でも見物しておれば、否、ホテルのバルコンでボンヤリ見ていてもいいが、メリメがヴィナスの石像に殺される男の幻想を得たような旅愁を、実はすべての旅行者が感じる理由があるのかも知れん。日本にも、それぐらいの島があるということにしておこうよ。
底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第九号」
1951(昭和26)年7月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第九号」
1951(昭和26)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月13日作成
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