半と十一時半にでる。午後は定期船がないから、漁師のチッチャな焼玉エンジンで大島へのりこむツモリであった。漁師のポンポン船は二年前からナジミなのである。五十米ぐらいの釣糸をぶら下げて全速力で走りながらたぐりよせると、相当大きな魚がぶらさがって現れてくるね。後に板をひかせて波のりをやったら、檀一雄があんまり勇みすぎて板とともに海中に逆立して網にはさまれ、あわや大事に及ぶところでありました。このポンポン船でも定期船とそう違わぬ速力で大島へ行くことができる。そのかわり、散々海水を浴びなければならない。そのためにレインコートを着て家をとび出そうとしているところへ、大島に於てはバクハツは感じていないそうですと古屋主人の落ちついた電話でした。
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東京から七時間、一ねむりのうちに。伊東からは二時間、橘丸だと一時間半でカンタンに行くことのできる大島が、風俗習慣がガラリと変っているというのが珍しい。内地を一昼夜特急で走っても、これほど風習の差のあるところはめったに見られない。
この変った風習のモトについて多少とも解説できればと思ったが、私の調べたところではとても見当がつかない。
富士山麓は三島の宿の三島明神は東海道では熱田神宮につぐ大社であり、熱田が皇神であるにくらべて、これは事代主《ことしろぬし》(また古からの別説では大ヤマズミノミコトともいう)を祀った日本土着の大親分が祭神なのである。
大昔に神様の一族が三宅島へきて伊予の三島神社を勧請したのを、さらに伊豆の白浜を経て三島へ勧請したものだという。途中に立寄った白浜は今の白浜明神がそれだということだ。これが三島神社の古伝だそうである。
伊予の三島神社というのは瀬戸内海の大三島(オーミシマ)の三島神社であろう。この祭神は大ヤマズミで三島神社の古伝と合っている。延喜式神祗巻では伊豆の三島神社、白浜の伊古奈比※[#「二点しんにょう+占」、第4水準2−89−83]命《イコナヒメノミコト》神社、ともに名神社であり奈良朝時代から朝廷の封戸をうけたというから三宅島から三島へ移ったのはずいぶん昔のことだ。だから古伝を信用すると、すくなくとも三宅島には奈良朝以前に大ヤマズミを祖神にいただく一族が土着したものらしい。しかしその一族の子孫が今日の三宅島島民かというと全部がそうでもなく、部落ごとに風習の異なるものがあるそう
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