たは、蘇我氏とともに亡びた。しかし、蘇我氏の亡ぼされた如くに、それらの記録も亡ぼされた、ということを一度は疑ってみても悪くはなかろう。焼ける国記を恵尺がとりだしたということは、弁解的な筆法で、事実はアベコベにそれを焼いたのが彼ら自身だとみることも、歴史家や学者はやらないかも知れないが、タンテイというものはそういう下司なカングリをやらかすものなのさ。こッちは学がありません。素人タンテイというインチキ岡ッピキの三下ヤッコですからね。
 素人タンテイの心眼だから我ながら鋭い把握はないのだが、しかし「上宮聖徳法王帝説」という本を読むと、どうも妙だな、と思うことがあります。私は二十五年前の坊主学校の生徒だったから、否応なくこの本を読まされたのですよ。日本仏教史をやると、書紀の仏教渡来年代の誤りというカドによって、この本だの元興寺伽藍縁起併ニ流疏記資財帳などを読まされますよ。なるほど欽明戊午と書いてあるな。しかし、そういうことは、大したことじゃないね。欽明戊午だろうと、一二一二だろうと、十年や二十年のヒラキはコチトラの知ったことじゃアないね。夢想的な素人タンテイというものは、そういうコクメイなことは性に合わないのである。しかし「上宮聖徳法王帝説」なるものは、本文の字数はいくらもないけれども、読んでみると、おもしろいね。
 なぜ面白いかって? ヒラキ直られると、こまるが、失われた古代の歴史、たとえば日本書紀が甚しく多数の文字を用いて説話的伝説的に物語を構成している失われた古代を、これは、また、たった二十か三十の字を用いてズバリズバリと簡潔に事実だけを言いきっているではありませんか。なんの感情もありませんね。この記録者が聖徳太子のファンなら、入鹿にも悪意はないだろう。もっとも入鹿は山背大兄王《やましろのおおえおう》(聖徳太子の子供)とその一族を殺していますね。それにしても、入鹿が山背大兄を殺した記事も簡潔、入鹿が殺された記事も簡潔、気持がいいほど無感情、実にアッサリしたものですよ。ザッと次の通りです。
「飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日、蘇我|豊浦毛人《とゆらのえみし》大臣ノ児、入鹿臣□□林太郎、伊加留加宮《いかるがのみや》ニ於テ山代大兄及其ノ昆弟等合セテ十五王子|悉《ことごと》ク之ヲ滅ス也」
 飛鳥天皇は皇極天皇のこと。林太郎というのは入鹿の異名だそうです。その上の二字の欠写については、後にタンテイの結果をのべます。
「□□□天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇、林太郎□□ヲ殺シ、明日ヲ以テ其ノ父豊浦大臣子孫等皆之ヲ滅ス」
 アッサリしたものです。近江天皇は天智天皇のこと。□□□及び□□という二ヶ所の欠字については、これまた後にタンテイの次第を申上げます。
 この件りのあたりを書紀がどのように書いているか、欽明天皇の終りごろから読んでごらんなさい。ヒステリイだかテンカンだか知らないが、ほとんど血相変えて、実に慌しく発作を起しているのです。入鹿蝦夷が殺される皇極天皇の四年間だけでなく、その前代の欽明天皇の後期ごろから、何千語あるのか何方語あるのか知らないが、夥しく言葉を費して、なんとまア狂躁にみちた言々句々を重ねているのでしょうね。文士の私がとても自分の力では思いつくことができないような、いろんな雑多な天変地異、妖しげな前兆の数々、悪魔的な予言の匂う謡の数々、血の匂いかね。薄笑いの翳かね。すべてそれらはヒステリイ的、テンカン的だね。それらの文字にハッキリ血なまぐさい病気が、発作が、でているようだ。なんというめざましい対照だろう。法王帝説の無感情な事実の記述は静かだね。冷めたく清潔で美しいや。それが事実というものの本体が放つ光なんだ。書紀にはそういう清潔な、本体的な光はないね。なぜこんなに慌しいのだろうね。テンカン的でヒステリイ的なワケはなんだろう。それは事実をマンチャクしているということさ。
 とにかく、重大なことが起ったのさ。ところがですね。その重大なこととは、蝦夷という大臣とその子の入鹿が殺されただけのことではないか。蝦夷と入鹿は自分を天皇になぞらえて、宮城やミササギをつくッていたそうだが、それにしでもだね、大臣が殺されたなんてことは、その前後にフンダンにありますね。天皇も皇太子も殺されているね。王子もそれから天皇位を狙う重臣も、いろいろと品数多く、蝦夷入鹿の父子よりもよッぽど高貴の筈の人たちが実にムザンに実に大量に殺されたり殺したりしているではありませんか。より以上に重大な殺人事件がタクサンあるのに、ヒステリイ的で、テンカン的で、妖しい狂躁にみちているのは、この事件の場合だけですね。実に事の起る六七年以前から、記事はすべて天変地異、妖しい前兆、フシギな謡の数々だ。ただごとではありません。そこに重大な理由がなければならないことだ。
「上宮聖徳法王帝説」は、昔、写本を写真に撮したのも見たことがあったし、写本の一種も見たことはあったが、今は私の手もとには群書類従もない。岩波文庫本が一冊あるだけだ。ほかの本のことは知らないが、岩波本は相慶之という坊さんが写した本だね。二条、六条天皇のころ、平安末期の法隆寺の大法師だそうだね。
 この本に、ごく稀に、二字三字ずつ欠字があるのは、なぜでしょうね。虫くいの跡ではないね。虫くいにしては数が少なすぎるし、欠字の形が縦横に不自然でなければならない筈だ。この欠字はいつもタテであるし、前後がハッキリしていて、ある単語や、ある意味をなす一句の全部がチョッキリ欠字になっていることを示しているのである。虫がそんなにチョッキリと食う筈はないね。
 つまりこの欠字は人から人へ写本されつつあるうち、誰かが故意に欠字にしたものだ。しかも甚しく曰くありげなところに限って欠字になっているのである。相慶之の写本以外の異本があるなら、見たいな。同じところが欠字になっているかしら。曰くありげとは、天皇の名とか、ミササギの場所とか、そういう事が記載されているらしい所に限って欠字になっているのさ。
 まず、先にあげた山背大兄王が殺された記事と、入鹿父子が殺された記事を例にとってみましょう。
 飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日。これは書紀と同じだね。飛鳥天皇は皇極天皇で、癸卯は書紀では皇極二年に当っています。さて次に毛人《えみし》大臣の児、入鹿臣□□林太郎が山代大兄及び十五王子らを殺したというのだが、書紀の方には皇極二年に何があったかというと、例の妖しげな前兆や天変地異の数々のほかに、十月六日のところには、蝦夷が病気と称して朝堂へ姿を見せないばかりか、息子の入鹿に紫冠を授けて物部大臣を名のらせたと書いてある。自分の子を勝手に大臣に任じたわけだ。その前年の条には、祖先の廟を葛城の高宮にたて八※[#「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1−14−20]之※[#「にんべん+舞」、第4水準2−3−4]《やつらのまい》をやり、自分と入鹿のミササギをつくったことが記されている。山背大兄が殺されたのは、書紀では翌三年の出来事になっており、またその年には蝦夷がいよいよ甘梼岡《あまかしのおか》に宮城を構えて自分の住居を上宮門《うえのみかど》、入鹿の住居を谷宮門《はさまのみかど》とよび、子供を王子とよびはじめたことが書いてある。
 すると「入鹿臣□□林太郎」という欠字には、どうやら、天皇的な、それに類する語、蝦夷の私製の特別な語があったのかも知れないが、そういう語がはいっていたのではないかね。まだ蝦夷も入鹿も天皇ではなかった。なぜなら、すぐその上に、飛鳥天皇御世葵卯年と明記しているから。
 ところが、それから二年目が入鹿と蝦夷の殺された年であるが、それを法王帝説は、
「□□□天皇御世乙巳年六月十日」
 と書きだしているね。書紀によれば、これは皇極四年である。皇極四年ならば、法王帝説は、先の条にある如く「飛鳥天皇御世乙巳年」と書く筈だね。ところが、飛鳥天皇は二字だが、□□□天皇は三字だよ。そして、それにつづいて、その六月十一日に、
「近江天皇、殺於林太郎□□、以明日、其父豊浦大臣子孫等皆滅之」とある。
 近江天皇はまだその時は中大兄王で天皇ではないが、後に天皇たるべき人をはじめから天皇とよんでいる例はこの本ではしょッちゅうのことだ。怪しむに足らん。まだ天皇になる前にも後の天皇を天皇とよぶのがこの本の例であるのを知ると、「入鹿臣□□林太郎」も「林太郎□□」も、どっちも、やっぱり天皇か皇太子、もしくは天皇か皇太子を特に蘇我流にした同じ意味の別の語であったかも知れないね。
 皇極二年に山背大兄王及び十五王子を殺すとともに、蝦夷か入鹿のどちらかがハッキリ天皇位につき、民衆もそれを認めていたのではないかね。即ち、
「□□□天皇御世乙巳年」は皇極天皇の飛鳥ではなく、甘梼岡だか林太郎だか他の何物だか知らないが、蝦夷天皇か入鹿天皇を示すどれかの三字があったのだ。私はそう解くね。この欠字の特殊な在り方によるのみではなく、日本書紀が蝦夷入鹿を誅するのを記述するに途方もないテンカンやヒステリイの発作を起しているからです。きわめて重大な理由がなくて、このような妖しい記述が在りうるものではなかろう。蝦夷入鹿は自ら天皇を称したのではなく、一時ハッキリ天皇であり、民衆がそれを認めたのだ。私製の一人ぎめの天皇に、こんな妖しい記述をする筈はないね。その程度のことは、否それよりも重大な肉親の皇位争い、むごたらしい不吉な事件はほかにいくつもあるではないか。
 蝦夷入鹿とともに天皇記も国記も亡び失せた意味は明瞭だ。蝦夷が焼いたのではなく、恐らく中大兄王と藤原鎌足らが草の根をわけて徹底的に焼滅せしめたのに相違ない。
 そして、書紀全篇の中で、ただ一ツ調子が妖しく乱れて、テンカン的にざわめき立っているのがこの一ヶ所であるのを知れば、書紀成立の重大な理由の一ツが天孫たる天皇家の日本の首長たる神慮や定めを創作するにあったというその最も生々しい原因が蘇我天皇の否定、蘇我天皇よりも現天皇の優位を系譜的に創作する必要に発していたと見てよかろう。蘇我天皇の否定、現天皇の優位を理窟づけることは、さしせまった大問題であったのだ。ことその条に至るや妖しくも調子が乱れてざわめき立たざるを得なかったほどの大問題であったのさ。蘇我氏とともに蘇我氏の国記を亡して、自分の国記を創る必要があったのだろうね。
 歴史家でも学者でもない私は、文章の調子から歴史をタンテイするという妖しい手口を用いたのですが、しかしタンテイするためにムリにその手口を発明したわけではないのです。たまたま書紀にそういう文章があって、同時に上宮聖徳法王帝説という妙に冷静な欠字をもった書物があったということが、おのずからムラムラと私にタンテイの意慾を起させただけのことです。しかし、こういうことを発《あば》くことが現天皇家に何の影響もありうべからざることは前章でルル述べた如くであり、歴史というものは、たとえ素人のタンテイ眼を用いてでも、その正しい史実をもとめるべく努力することが理にかなっているということを明にしたかったからであります。学問は真理をもとめて真理を語るものであるが、つとめて真理をごまかそうと努力している学問は日本歴史あるのみ。日本の史家が真理をもとめようとしないから、素人タンテイが柄にもなく言わざるを得ないのです。素人タンテイのナマクラ手口に対する諸先生のお叱りは覚悟の上であります。
 さて、かりに私のタンテイの結果を認めることにすると、書紀に於いて蘇我氏が素性のない成り上り者ではなくて、建内|宿禰《すくね》という怪人物の子孫に表現されているということには、いろいろと意味がありそうだね。しかし建内スクネとは何者ぞや。これはどうにも分りッこないね。まったく神話という太古の湖の底の存在だもの。湖面にはなんの手がかりがあるものですか。
 だが、記紀から判断すると神功皇后は神がかりして予言などを行うミコや教祖の実力を具えていたようだ。すると建内スクネは教祖の参謀長、否、総理大臣かね。それにしては、その後のスクネが妙に忠実な番頭で、現代に於ける教祖の総理大
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