安吾の新日本地理
飛鳥の幻――吉野・大和の巻――
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大神《みわ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四百五十|米《メートル》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1−14−20]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)チョロ/\
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 海を見たことがないという山奥の子供でも汽車や自動車は見なれているという文化交通時代であるが、紀伊半島を一周する汽車線はいまだに完成していない。また、紀州の南端から大台ヶ原を通って吉野へ現れるには、どうしても数日テクる以外に手がないのである。吉野の入口から自動車にのると上の千本までしか登れない。奥の千本へ行くにもテクらなければダメなんだから、大峰山や大台ヶ原は今もって鏡花先生の高野聖時代さ。交通文明というものに完璧に見すてられている山また山の難路なのである。ところが昔の神々は目のつけ場所がちがう。ここが日本で一番早くひらけていた交通路の一ツなんだね。
 神武天皇が熊野に上陸して最初に辿ったコースがこれだ。そのころの日本人の生活はどんなグアイかというと、当時の日本の王様、大国主だかその子孫だか誰だか知れんが、その王様のいたミヤコがたぶん今の奈良県三輪らしいね。今はそこに大神《みわ》神社があって大国主を祀っているが、この神社は拝殿があるだけで本殿はなく、否、建築としての本殿はないが、三輪山という四百五十|米《メートル》ぐらいの姿の美しい山全体が本殿であり御神体なのである。山上や中腹に巨石がルイルイとあるそうだ。
 三輪から山の辺に沿うて盆地を北上すると天理教の丹波市《たんばいち》から奈良へと平野がつづいている。南に向ってはウネビ、耳成《みみなし》、天ノ香具山の大和三山にかこまれた平地があって飛鳥の地があり、そこから山岳になって吉野へ熊野へと通じるわけだ。東の方へは初瀬《はせ》から宇陀、伊賀を越えて伊勢路へ通じ、西の方へは二上山を経て河内、大阪方面へ通じている。三輪のミヤコをまン中に、交通は四通八達していたらしい。これを古に「山の辺の道」と云い、古記にも、崇神天皇には「御陵ハ山辺道ノ勾之岡ノ上ニアリ」とあり、景行天皇には「御陵ハ山辺之道ノ上ニアリ」とある。
 この古代の道が今も残っているのだ。東に伊賀伊勢方面へ、西に河内方面へ、と東西にのびる道が三輪の町で丁字形に岐れて奈良方向へ北上している。今日も古代のように人がそこを歩いているのだが、どういう証拠があって、これを古代のままの「山ノ辺ノ道」と断定されたのか私は知らない。私はその道を通ってみた。今は賑やかな町となっているところもある。賑やかだが自動車がようやく一台通れる道だ。道で自動車とすれちがった。私たちの自動車は自発的に後退して向うの車がすれちがうのを待った。向うの車がサンキューと云ってすれちがうかと思いのほか、あやしくも心にくし、向うも後退して通路をつくり、私たちの通過を待つではないか! なんたる礼節! 古代日本はかく在りしか。見上げたる神々の子孫よ。と思いつつ敬々《うやうや》しくかの車を通過すれば、この車に乗りたるオノコらは手に手にメガホンをもち、これなん選挙の自動車にてありけり。二日の後が投票日さ。三日目からは決して人に道を譲らない自動車でした。
 家並を外れると、なるほど山の辺にかかって北上し、右手山際に、景行、崇神両帝の陵をすぎ、石上神宮があって、やがて現代教祖のお筆先賑う丹波市となるのである。
 いわば吉野も、この古の道の支線の一ツだ。伝に曰く、役《えん》の行者がひらいた道さ。そして今も年々歳々山伏の通る道である。この地帯は山伏の聖地である。吉野には蔵王堂があって、この聖地の本堂だ。そして金峰山のテッペンから大台ヶ原全体にかけて、すなわち山伏の根本道場だね。蔵王堂は木造建築としては東大寺の次ぐらいに大きいのだそうだが、実にヌッと突ッ立ってる様が山伏的にブザマで、美的じゃないね。この本堂の前に人だかりがあって、本堂のキザハシの上で洋装の女の子が炭坑節を唄っていたよ。桜まつりと、いうんだそうだ。私の行った日は、桜まつり歌謡曲の日。その翌日は、ストリップ桜ショウの日、と宣伝ビラにあったね。山伏の根本道場のキザハシでストリップをやるのさ。役の行者以来、法術によって何でも祈りだすのが山伏というものさ。
 吉野山に立って北方を見ると、天は山々の壁によってさえぎられ、一きわ高いのを龍門岳というね。ここに昔、久米の仙人が住んでいたのだ。その山々の向うに飛鳥の地があって大和盆地があるのだが、仙人は空をとんでとぶとりの飛鳥の里の久米川上空にいたり、センタクしている女の子のフクラハギを見て墜落したね。よってそれより人間に戻ってその女の子と結婚し、仲よく暮したそうだ。イニシエもイマも目にしむフクラハギ吉野はカナシ花ミエズ。久米の人マロかね。
 先月、仙台の旅行から戻ってきてから肺炎をやった。旅行の疲れのせいではなくて、伊東の町に火事があって猛スピードで見物に行って水を浴びたせいであった。コレヲ歓楽の果トイウカ、ペニシリンには感激しました。たッた一晩で熱が落ちた。ドクター曰く、ペニシリンに狎《な》れるナカレ。肺炎ハ肺炎デアル。二週間ハ注意シタマエ。しかし締切が待っているから仕方がない。翌日から仕事にかかり、競輪にも出かけましたね。再びどッと床につき、今度はいつまでも微熱が去らない。吉野旅行が延び延びとなり、ついに意を決しペニシリンと注射器一式にダイヤジンをぶらさげて吉野へついたら、花の散ったあとであった。しかし、どうせ花を見ない私である。久米ノ仙人の末流さ。
 神武天皇が熊野から八咫《やた》の烏の先導で吉野にかかったとき、尾のある人間が井戸の中から出てきて、その井戸が光った。お前は誰だと問うたら、国ツ神で名を氷鹿《ひか》という者だと答えた。これが吉野|首《おびと》の祖先だと古事記に書いてある。その井戸が今も残っている。
 竹林院という修験道の宿坊が今は旅館になっている。万事アルバイト時代である。そこの名園(?)から竹林派という造庭上の名が起ったのだそうだが、そこのフモトの汚い谷底に神武天皇の昔光ったという井戸があるのである。谷底といったって、吉野の谷には水というものが殆どない。吉野川は岩石山水の美で名高い渓流であるが、これは吉野山の外側をぐるッと一周して大峯山脈から豊富な水を下流へ運んでいるけれども、山を距てた外側のことで、吉野山の内ブトコロには水がない。吉野の町は両側が谷だ。両側の深い谷にはさまれて、下から上へ桜の名所がエンエンつづいているのだが、両側の谷には殆ど水というものがない。地質のせいかね。そこで吉野山の頂上ちかく上ノ千本のあたりに、大峯山脈のドテッ腹から清水をひいてきて水道をつくり、町民はこの水道を飲料に用いている。井戸を掘っても水がでないのだ。
 だから、吉野山に井戸水があるということは例外なのだ。清水というものも、甚しく乏しい量で、後ダイゴ天皇の御製に、枕の下に水くぐる音、とあるが、なるほど吉水院の門前の家には竹のトヨで山腹から清水をひいてチョロ/\流れているのを現に用いているけれども、その清水の溜り水が深く濁りよどんで臭気があるほど流れている水量はチョロ/\にすぎない。吉野の宿屋はこの吉水院と同じように深い谷の上に一列に並んでいるが深夜になっても私の枕の下は水の音がくぐらなかったね。恐らく雨がふれば、眼下の谷に水流の音がトウトウと鳴るのであろうが、お天気の日は枕の下はほとんど水音はないね。実に高い谷なんだ。私の泊ったサクラ花壇という妙テコリンな名の旅館の座敷から見ると、はるか眼下にトンビやカラスが舞いまわり木の枝にとまっている。実にはるか眼下の木の枝にです。トウトウと谷が流れて然るべきだが、吉野山なるものは殆ど水がないのである。
 だから、吉野に於ては、むかし、むかし、井戸があるとすれば、実に最高の宝であったに相違ない。吉野の親分が井戸の中から這って現れたというのは当然の話ですよ。東京の親分は省線の駅を縄張りにマーケットをつくるが、吉野の大昔の親分はたった一ツの井戸を縄張りにマーケットを造ったにきまっていや。高い水を売りつけてボッたんだね。貴重な水だから、濁っていても光りかがやくさ。
 吉水院の前には珍しく清水があったし、名も吉水だから、吉野をひらいた役の行者がこゝに庵室を造ったというのも、こゝが水にめぐまれていたせいかも知れない。その庵室が後年の吉水院、今の吉水神社、後ダイゴ天皇の仮の宿舎です。この庵室は鎌倉時代の建築で、後ダイゴ帝の泊った時のままのものだ。後ダイゴ帝の遺品には楽器が多いや。御岳丸笙、国軸丸笙という笙があったし、七文字笛、高麗笛という笛の精が中に住みついているようなのもあったね。楽記という書物もあった。続拾遺和歌集があった。風流でいらせられる。詩歌管絃に身をかためて京都を脱出あそばしたね。字も名筆だ。この帝、感情豊富ナリ。しかし、水の乏しい吉野で、枕の下に水をくぐらせてしまったのは、誰しも傷心やみがたければ、そうもなろうというものだろう。だいたい人の判断が視覚に幻惑される例は多いね。この山この谷の姿を見ればトウトウと谷の流れや至るところに清水の流れを思うのは自然なのさ。この山に水がないときいた方がビックリするよ。全山冷めたく清らかな清水にあふれているように思われますね。桜ノ花ハ火ニアラズ。火ヨリモ水ニ近カラン。旅行者たる後ダイゴ帝が水にあざむかれ、土着の親分氷鹿がチャッカリ井戸を占領して井戸の中より現れ出でたのは然るべきところであるかも知れません。太古の史家はその表現が巧妙だ。これを健康なる表現と云いますか。水鹿親分は一本には女性ナランとあるね。
 南北朝は元中九年(北朝の明徳三年)南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を伝えて、南朝の不和は和解したことになっているが、実はさにあらず、後南朝というべきものがあって、その後も吉野にたてこもり、六十五年がほど抗争していた。
 和解の条件は南北両朝から交互に皇位につく約束であったが、後小松天皇以後への北朝はその約束をまもらないから、五十年ほど辛抱していた南朝方はもはや北朝に誠意なし武力以外に手がないと内裏へ乱入して三種の神器を奪いとり、吉野川の上流、北山村と川上村にたてこもり、南朝の正系たる自天王を擁し天靖の年号をたてて天皇を称した。しかし長禄元年に北朝の刺客がこの村に忍びこんで自天王を殺し、その弟の宮忠義王をも殺した。本誌の昨年正月号に滝川政次郎氏の文章があるから、私がクダクダしく書くには及ばないでしょう。
 応仁の乱に、山名宗全は西陣南帝を擁して北朝の天子をいただく細川方と戦ったが、西陣南帝は乱後に奥州へ落ち、標葉郡沢之邑というところに住んだそうだ。その後裔が熊沢天皇デアル、という。これ即ち熊沢天皇家に伝る系図だそうだね。系図は本当らしいね。しかし彼は天皇ではないさ。南朝の血をひく名古屋の雑貨商、熊沢寛道氏であろう。藤原一族は云うまでもなく、大和の農民にも、クマソ土グモの子孫の中にも天皇の血をひく者は珍しいことではなかろうさ。
 日本の相続の習慣は(習慣だろうな。昔は制度や法律ではなかったろう)古代に於ては家長が自分の好きな子供に与える。これを選定相続というのかね。しかし、長兄に与えるのが自然だという不文律が感情的に存在していたのかも知れない。応神天皇は二人の子供をよんで、お前らはお前たちの子供の場合に兄の方が可愛いいか、弟の方が可愛いいか、ときいた。というのは三人目の末弟に皇位を譲りたい下心があったからだそうだ。長兄は兄の方が可愛いいと答えたが、次兄は天皇の心を察して弟の方が可愛いいと答えた。天皇はよろこんで、次兄の言葉は正しい。一番下の子が可愛いいものだ。だからお前らには皇位をゆずら
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