王が殺された記事と、入鹿父子が殺された記事を例にとってみましょう。
飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日。これは書紀と同じだね。飛鳥天皇は皇極天皇で、癸卯は書紀では皇極二年に当っています。さて次に毛人《えみし》大臣の児、入鹿臣□□林太郎が山代大兄及び十五王子らを殺したというのだが、書紀の方には皇極二年に何があったかというと、例の妖しげな前兆や天変地異の数々のほかに、十月六日のところには、蝦夷が病気と称して朝堂へ姿を見せないばかりか、息子の入鹿に紫冠を授けて物部大臣を名のらせたと書いてある。自分の子を勝手に大臣に任じたわけだ。その前年の条には、祖先の廟を葛城の高宮にたて八※[#「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1−14−20]之※[#「にんべん+舞」、第4水準2−3−4]《やつらのまい》をやり、自分と入鹿のミササギをつくったことが記されている。山背大兄が殺されたのは、書紀では翌三年の出来事になっており、またその年には蝦夷がいよいよ甘梼岡《あまかしのおか》に宮城を構えて自分の住居を上宮門《うえのみかど》、入鹿の住居を谷宮門《はさまのみかど》とよび、子供を王子とよびはじめたことが書いてある。
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