のを三頁よむと、虚器を人格化している感情は身についているね。生活自体がそうであった。これが平安貴族の特色だ。これに比べると神皇正統記の理論は親房の身についた感情をともなっているものではなくて、一貫して論理であり、論理のために汗ダクではあるが、論理と共に生きている安定はない。
だいたい一国の王様の資格には万世一系だの正統だのということが特に必要だというものではない。王様を亡して別の一族がとって代って王様になっても王様は王様だ。三代貴族と云って、初代は成り上り者でも、三代目ぐらいに貴族の貫禄になる。十代前が海賊をはたらいて稼いだおかげで子孫が今日大富豪であると分っていても、民衆の感情は祖先の罪にさかのぼって今日の富豪を見ることはないものだ。王様も同じことだ。初代が国を盗んだ王様であっても、民衆の感情は初代の罪にさかのぼって今日の王様を見ることはない。今の王様であることが、王様の全てであり、それが民衆の自然の感情だ。
曾我兄弟の人気は大そうなものだが、ツラツラ事の起りを辿れば、曾我兄弟の祖父が工藤祐経の領地や財産を奪ったのである。祐経の方が元来の被害者さ。そこで祐経が五郎十郎の父に復讐し
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