どうにもならん。いさぎよく諦めて帰ってきた。二、三十分土をふんだというだけで、十五年前に行った時は何一ツ見物しなかったのです。
日本の神話(仏教渡来の頃までを含めて)で最大の巨人は大国主という大人《たいじん》だね。いとも情緒こまやかに太平楽で、女や酒は大そう好むけれども、およそ戦争を好まないという昔には珍らしいダンナだね。時の人民に人気があったわけですよ。スサノオ。オキナガタラシヒメ。建内スクネ。ヒノクマの帰化人たち。変ったダンナやオンナのヒトは色々といるけれども、神話という太古の湖があるだけで、その湖面から確実な歴史を見分けることは全然できない。
神話と歴史の分水嶺は、仏教の渡来だろう。はじめて実在の人間と遺物があって、それを証明するに足る記録があるのだから。
それにしても、王仁《わに》が論語をもたらし文字を伝えたというのが伝説であるにしても、また、ヒノクマその他に土着した夥しい帰化人たちが大和地方民の生活中に文字をもたらしたであろうことが臆測にとどまるにしても、仏教の渡来以後は急速に文字が普及したことは確実だ。とりわけ聖徳太子が現れるや、隋へ大使や学問僧を送って文物をとりよせ、憲法をつくり、十二階を定め、七大寺をたて、仏典を講じ、今日と同じように文字とともに生活する文化生活が起ったのである。色々雑多な記録がおびただしく在ったはずだ。今日では主として寺院関係の極めて少数のものだけが、引用されたりなんかして、どうやら残っていますね。しかし、ある種のものが完璧に伝わらないね。
聖徳太子と馬子が協力して、天皇記、国記、各氏族の本記というものを録した由ですね。文字のあるところ、必ずそのような記録があるべき性質のものだ。それが完璧に残っていませんね。大極殿で入鹿《いるか》が殺され、蝦夷《えみし》がわが家に殺されたとき、死に先立って、天皇記と国記を焼いたそうだ。もっとも恵尺という男が焼ける国記をとりだして中大兄《なかのおおえ》に奉ったという。
蘇我氏の亡びるとともに天皇家や日本の豪族の系図や歴史を書いたものがみんな一緒に亡びたのかね。そういう記録が一式揃って蘇我邸に在ったというのは分るが、蘇我邸にだけしかなかったということはちょッと考えられないことだね。文字の使用者が聖徳太子と馬子に限られていたという蒙昧な時代ではなかったはずだ。それらの記録は蝦夷とともに焼けた。ま
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