、五郎十郎がその仇を討った。事の起りは、五郎十郎方の祖先が悪いのだが、祖先の罪は民衆の感情の対象にはならないのである。祖先と云ったって、五郎十郎でたった三代目、祐経の方は国や財産を盗まれた当の本人だ。それですら、ソモソモのことはすでに民衆の問題ではない。民衆の自然の感情はそういうものだ。常に「今」の問題である。
 今の王様が今の罪によって民衆に裁かれることはあっても、国を盗んだ祖先の罪によって裁かれるということはない。すくなくとも、民衆の感情が自然の状態に於てはそうである。法律だって祖先の罪にさかのぼりやしないね。
 天皇とても同じことだ。しいて万世一系だの正統だのということは、民衆の自然の感情に相応しているものではないのである。ただ原始の、呪術的な神秘思想に相応しているだけさ。歴史的事実としても神代乃至神武以来の万世一系などというものはツクリゴトにすぎないし、現代に至るまでの天皇家の相続が合理的に正統だというものでもない。むしろお家騒動、戦争ゴッコの後の相続が甚だ少くないのである。しかし、そんなことは民衆の自然の感情には問題ではないのだ。かりに熊沢天皇が南朝の血統たるのみならず、徹底的に合理的な正系であるにしても、民衆の感情は熊沢天皇をうけいれはしないね。民衆の感情にとっては今の天皇が天皇のすべてで、熊沢覚道氏は名古屋の雑貨屋にすぎないのである。
 もっとも、かりに革命が起り、別の王様が国をとる。その初代目は民衆の多くに愛されないかも知れないが、二代目はもう民衆の自然の感情の中でも王様さ。否、うまくやれば国を盗んだ一代目ですら民衆の憎悪を敬愛に変えることができるかも知れん。民衆の自然の感情はたよりないほど「今的」なものだ。時代に即しているものだ。戦争中東条が民衆の自然な感情の中に生きていた人気と、同じ民衆の今の感情とを考え合せれば、民衆の今的なたよりなさはハッキリしすぎるほどでしょう。たった六年前と今とのこの甚しい差。別に理論や強制と、関係なく現れてきた事実だ。単に時代と共に生きつつある民衆というものの自然の感情は、永遠にかくの如きものさ。
 万世一系だの正統だのということを特別の理由とする限りは、蒙昧な呪術的な神秘迷信時代の超論理や詭弁をもって一国の最後的な論理とする愚かさ危さをまぬがれることはできない。日本の運命を古事記的な神がかりにまかせておいて文明開化を導
前へ 次へ
全17ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング