がやっぱり三種の神器の争奪だ。天皇は三種の神器だ、というのは神皇正統記の思想なのである。南朝を正当化するには、特にこういう論理が必要でもあった。戦争に妙な論理が必要だということは、我々が痛切に経験したことである。八紘一宇とやら称して古事記だの日本書紀だのというものから論理を探してきたのが現代の話だからね。それに比べれば南朝の論理の方がいささか文明さ。
建武中興の理想は武家政治や院政の否定、天皇親政復活ということであるが、皇位相続の正しい法則をどこに求めるかということになると大そうグアイがわるかったのである。摂関政治、院政、武家政治時代、というものは、なべて選定相続だ。南朝自体が嫡流ではないのである。院政のおかげで、弟の方が上皇に愛され選ばれて、皇位をついだのが南朝だ。兄の系統が北朝だ。天皇親政の理想によって相続法も昔に復活すると、北朝の方に相続権の理があるのだ。そこで仕方がないから、正統の天子とは何ぞや。三種の神器の授受である。神器のあるところに天皇あり。やむを得ない詭弁であった。九条兼実という九条家始祖の関白は藤原氏歴代の中で特に実利派の陰謀家であるが、しかし彼の日記「玉葉」なるものを三頁よむと、虚器を人格化している感情は身についているね。生活自体がそうであった。これが平安貴族の特色だ。これに比べると神皇正統記の理論は親房の身についた感情をともなっているものではなくて、一貫して論理であり、論理のために汗ダクではあるが、論理と共に生きている安定はない。
だいたい一国の王様の資格には万世一系だの正統だのということが特に必要だというものではない。王様を亡して別の一族がとって代って王様になっても王様は王様だ。三代貴族と云って、初代は成り上り者でも、三代目ぐらいに貴族の貫禄になる。十代前が海賊をはたらいて稼いだおかげで子孫が今日大富豪であると分っていても、民衆の感情は祖先の罪にさかのぼって今日の富豪を見ることはないものだ。王様も同じことだ。初代が国を盗んだ王様であっても、民衆の感情は初代の罪にさかのぼって今日の王様を見ることはない。今の王様であることが、王様の全てであり、それが民衆の自然の感情だ。
曾我兄弟の人気は大そうなものだが、ツラツラ事の起りを辿れば、曾我兄弟の祖父が工藤祐経の領地や財産を奪ったのである。祐経の方が元来の被害者さ。そこで祐経が五郎十郎の父に復讐し
前へ
次へ
全17ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング