安吾の新日本地理
伊達政宗の城へ乗込む――仙台の巻――
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)経綸《けいりん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)御|羸疲《るいひ》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)チョイ/\
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 仙台は伊達政宗のひらいた城下町。その時までは原野であったそうだ。
 この城は天嶮だね。しかし眼下に平野を見下し、水運には恵まれないが、陸路の要地ではある。政宗が仙台を開府したのは、大坂や江戸の開府よりも後のことだ。だが、大坂や江戸にくらべて、地点の選び方が田舎豪傑式であり、近代性が低いのである。
 秀吉は主として信長の独創を実践した人で、彼自身の、独創というものはあまりないが、大阪の地に立って四方を見ると、ここに居城を選んだ彼の識見の凡庸ならざることがハッキリするね。海陸ともに交通の要点で、これにまさるいかなる要点も有り得ない。ビワ湖に面した安土城(信長晩年の設計)と大阪の地とでは、雲泥の差があるね。安土の地はなお戦国的な要点であるが、大阪は近代の首府に通じる要点だ。
 江戸の選定も家康の智恵ではなくて秀吉のすすめであったと云われている。秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、石垣山の頂上へ家康を案内して眼下に霞む関東平野を指し、
「小田原平定後は関八州をあなたに進ぜるが、あなたは居城をどこに定めるお考えか」
「北条氏同様、まア、小田原を居城に致す考えです」
「イヤイヤ。背後に箱根の天嶮をひかえた小田原は戦争向きかも知れないが、すでに時世の城ではござらんな。二十里東方に江戸という太田道灌築城の地がござる。入海に面し、広大な沃野の中央に位しております。また沃野の奥深くから流れてくる河川の便にも恵まれております。四周に豊かな生産地をもち、水陸の交通輸送の便に恵まれている江戸の地ほど、新時代の城下に適したものはござらん。ぜひここを居城となさい」
 と、きわめて誠意ある忠告をしたという話が残っている。
 政宗も実は石巻の日和山に築城したかったのだという話がある。なるほど、ここは仙台よりも水陸輸送の便があり、みのり豊かな北上平野を背後にひかえて、当時に於ける物産と交通の中心地点たるに適したところである。政宗の考えでは、意地のわるい狸オヤジのことだから、たぶん第一候補地を否決するだろうと思い、第二候補の仙台青葉山を第一候補にあげて築城を願いでたら、意外にもアッサリと第一候補を許可されたので、志とちがって、仙台を城下にせざるを得なかったという説がある。真偽は当てにならないが、北上平野は政宗が家臣の領地にも与えなかった直轄の穀倉地帯であり、その産物を運ぶために大運河をほって北上川の河口を石巻にうつしたところを見ると、石巻を物産と運輸の要点と見ていたことは頷けるのである。政宗も中央の政治家や政策に接して次第に大人になった人だから、後年に至って大坂江戸に匹敵する東北の中心地が石巻だと思いついたかも知れないが、仙台築城当時(一六〇〇年)はまだ田舎豪傑の域をでず、精一パイ勘考して、仙台青葉山を選んだんじゃないかね。時まさに関ヶ原の年であり、ドサクサまぎれに火事場泥棒しようというコンタンでねりかたまっている政宗であった。実際、関ヶ原のとき、彼は上杉を牽制するため東北を動かなかったが、ドサクサまぎれに一もうけしようとしてそのコンタンを家康に憎まれ、戦功に二十万石もらう筈の約束をフイにしているのである。
 こういう田舎豪傑が選んだ城下としては、それ相応の条件がそろっているね。仙台は山と平野の接点だ。眼下に平野を見下して、青葉山は天嶮だが、天嶮すぎらア。前面には広瀬川が城の三方をまわって流れ、後は渓谷をへだてて嶮しい山つづきである。青葉山そのものは河床からまッすぐそびえたつ岩山で、石垣でくみたてる必要がない。テッペンまで登るのに私は大苦労させられましたよ。私の案内者は山登りの愛好者だが、彼らも息を切らしていたほどだから、私はムシブロの中にいるように流汗リンリ、フラフラである。築城まもなく大坂の陣も終って天下に平和到来し、政宗も本丸の所在地が高い山のテッペンすぎるのを新発見してウンザリしたらしいね。築城の第一候補地は石巻の日和山であったなどと云いだしたのは、それから後のことだろう。時世に合せて、気がつきもしたし、前から気がついていたように、言いふらしたくもなったような気がするね。いつも後手後手と気がついた男で、それで生涯冷汗をかいていたのが政宗さ。オレ一代限りでテッペンの本丸をやめて、フモトの低いところへうつせ、と云いのこして死んだそうだ。そこで二代目から本当にフモトへ本丸をうつしたよ。拙者だけが登り道に苦労したわけではなかったのさ。すでに城を造った当人が登り降りにウンザリしていたのだ。ところがこのテッペンの本丸跡に護国神社が出来ていたね。参拝の子供たちがさぞ悩まされたことだろうよ。軍人だの役人は罪なことをするものさ。三百五十年前の片目の田舎豪傑だけの智恵も分別もないのだね。
 彼が生れて育った少年時代は、信長が天下を席捲し威名カクカクたる時代であった。信長の威風や逸話は事ごとに馬よりも速く奥州の山奥まで届いていたのだろう。彼の戦争ぶりやコンタンを見ると、信長の逸話的な方法に甚大な影響をうけて育ったコンセキがあるね。二十四になってもザンギリ髪の異形をしていたところなど、少年時代の信長をホーフツさせる珍話だろう。二十四にもなったら、もうちょッと威儀を正して然るべきだが、そこが田舎豪傑たるところだ。もっとも幼児の時に天然痘で片目がつぶれたそうだ。ヘタに威儀をはって片目のニラミがヤブニラミに見えては困るだろうから、ザンギリの異形によって片目をひきたてるコンタンだったかも知れないな。そういう化粧法的な心得や戦略にはヌカリのない田舎豪傑であった。
 時代のせいではあるにしても、信長に似せようという心掛けは上出来であったが、同じように信長の方法をふんだ秀吉が、新時代に即応して変化すべきことを心得ていたに反して、政宗には、それがない。バカの一ツ覚えである。ここが田舎豪傑たる彼の宿命のところであった。信長に学ぶならばその精神、その思想の原則をなすものを見習うべきである。信長は彼の生きた時代に於てはあのように行った。しかし新しい時代に彼ありせば、それに即応して別のように行ったであろう。その理が田舎豪傑には分らない。それが分れば田舎豪傑ではないのである。
 田舎豪傑にもウヌボレや抱負はある。むしろ有りすぎて困るのが田舎豪傑のウヌボレと抱負なのかも知れない。彼はいつも時代におくれていた。彼の経綸《けいりん》は常に後手をふんだ。秀吉に小田原石垣山の陣屋へよびつけられて油をしぼられた二十四のザンギリ髪の異形児は、はじめて天下の大を身にしみて味い、とても関白だの将軍だのというものにはなれないと悟ったらしい。せめて平泉の藤原氏のように奥州だけでも征服してその親分に、ただし平泉のように身を亡さずに子孫代々そうありたい、というような心得になったようだ。彼が生前に松島に瑞巌寺をたて自分の廟所に予定したのも、平泉的でもあるし、信長の総見寺という御手本もある。しかし、瑞巌寺は二級品ですよ。方丈の屋根だけは美しいと思ったが、襖絵なんかは悲しいね。秀吉の遺した桃山芸術、智積院の襖絵だの三十三間堂の太閤塀などという豪放ケンランたるものの片鱗すらも見られない。今は失われた秀吉の多くの建造物は、残った部分品から推察しても壮大ケンランたるものであったことが推察できる。そのようなケンラン豪快なものは、ここには見られない。中尊寺や失われた毛越寺の一流品的な性格も意図も見ることができないのである。彼は関ヶ原の時に至っても、ドサクサまぎれの火事ドロ根性を忘れなかった。彼と好一対をなすのは九州福岡の黒田如水で、西と東でドサクサ狙いのいずれ劣らぬ田舎豪傑。夙《つと》に中央に接し、中央の軍略政略に参与したこともあるだけに、如水の方がアカ抜けているが、ドサクサの一旗組というものは所詮その根性の本質に於て泥くさく、そのドサクサを狙うや概ね見透しをあやまる宿命であるらしい。切支丹《キリシタン》を利用するコンタンに於ても、二人は同じように見透しをあやまった。如水は窮余の策として、切支丹信者であると同時に、禅宗に帰依し、禅寺をたてて高僧をむかえるという前代未聞のことをやって秀吉や家康をごまかし、その死するや、切支丹と禅寺と両方に葬式が行われて、墓も二ツできるという妙なことになった。昨年だったか、切支丹の墓の方が発掘されて、そこからは何も出なかったということである。さもあるべきことである。如水は宗門に殉ずるような殊勝な人物ではない。その子の長政も同様で、万全を期してはかっているのは保身だけだ。他日幕府によって取りこわされ発掘されるかも知れない切支丹の墓に遺骨や遺品の一部でも渡すようなことが万々あろうとは考えられないのである。
 政宗の支倉《はせくら》六右衛門の海外派遣も見透しの大失敗であった。だいたいに彼は海外事情について研究したことがないようだ。これがまた田舎豪傑たるところである。家康が切支丹を禁教するまでには、当時としては出来うる限りの手をつくして海外事情を研究しているのである。ウイリアム・アダムスについて幾何学の初歩の手ほどきを受けたというのは、どういうコンタンだか分らないが、海外研究の一助にはなったであろう。多くの面から海外事情をコクメイに調べて、切支丹を禁教しても新教国のオランダと宗教ぬきで貿易できる見究めがハッキリしてのち切支丹を国禁した。新教国と宗教ぬきで貿易できる見究めが立たなければ、にわかに切支丹を国禁しなかったであろう。政宗にはそのような用意や研究は何もなかったようだ。彼は当時のオランダと旧教国が国交断絶、敵対関係にある事情についても正しい認識がなかった。そしてその手落ちによって、つまり彼がエスパニヤ国王に提出した条件中にオランダとの断交を確約する文章がなかったために、彼の最も希望する新エスパニヤ(今のメキシコ)との通商は拒否せられてしまった。支倉がまた輪をかけた能なしで、アチラの事情に即応して主人の手落ちを自分の一存で修正し主人の熱望する通商条約をまとめるだけのユーズーがきかなかった。
 政宗の本心は宗教をダシに新エスパニヤと貿易したいことだった。一方、紹介役のソテロは、日本の布教がイエズス会に牛耳られているのが不満で、自己の所属するフランシスコ会にも司教をおかせ、自分が司教になりたい考えであった。両者の希望は食い違っているが、田舎策師の政宗も、日本渡来のバテレン中で最大の策師たるソテロも、それは充分心得ていたであろう。要するに両者の希望は別々でも、相助け合って両者の希望を実現すれば足るのである。幕府がソテロの口車にのって動く見込みがないからソテロとしては田舎豪傑の政宗でやってみる以外に手がなかったかも知れないが、そうカンタンに外国がだませるツモリの政宗が、つまり田舎豪傑であったのである。
 彼の本心は、支倉一行が出発しないうちから、すでにイエズス会に見破られていた。司教のセルケイラはイエズス会総長に宛てて、政宗の本心はヤソ教ではなくて、通商であり、彼の領地へフランシスコ会の僧が続々くるようになると、家康の怒りをかって政宗は滅亡するだろう、と手紙している。一行の出発前のことである。この予言はまさに図星であったろう。後手専門の田舎豪傑は二三年たってそれにようやく思い当ったのである。家康が長い年月苦心した日本統治対切支丹、日本統治対海外貿易という難問題は、その結論が家康の断となって表明されるまで、田舎豪傑には分らなかったのである。しかしバテレンたちには分っていた。家康のみならず、信長、秀吉、家康三代にわたる日本統治者に共通の悩みであったのだ。秀吉は切支丹の布教を外国の日本侵略の第一段階と速断したが、保守家の家康は自身に侵略精神が稀薄であるから布教を侵略と速断するような軽率なところはなかった。彼は実
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