際よく外国事情を調べたのである。その結論として、徳川家の日本統治を万代不易たらしむるには、鎖国がなによりカンタンで、心配のタネがないにきまってるさ。万里の海をへだてた外国が、日本へ千人の兵隊を無事に辿りつかせるだけでも容易でないのに、侵略などということを当時としては当面の大事として考える必要はなかったろうね。鎖国したって外国の兵隊の侵略がありうることに変りはなかろう。むしろ当面の大事は諸侯の自由貿易で、強力な海外文明が諸侯に利用される方が保守家たる家康には頭痛のタネであったにきまっている。政宗は家康が内々何より頭痛のタネになやんでることを怖れげもなく大々的にやろうというのだから、この田舎豪傑の眼力のとどかぬことは論外なのである。いつもながら後で気がついて大狼狽、大冷汗をながすのである。
政宗の計略は日本在住のバテレンたちに早くも見破られていた上に、支倉一行が向うへ到着してのちに、家康の宣教師追放、ヤソ教迫害がはじめられた。一行が政宗のいい加減な信書を国王や教皇に奉呈しても相手にされなくなったのは仕方がなかったのだ。
ソテロと支倉はエスパニヤ国王に歎願書をだして「家康が迫害したって、政宗は保護する。家康に対立して、こういうことができるのは、政宗と秀頼がいるだけだ」大きなことを云ってごまかそうと大汗たらしたが、全然ダメだ。当時(一六一六年)はすでに大坂城落城、とっくに秀頼は死んでましたよ。それも支倉は知らなかったかも知れない。日本の事情はバテレンからの報告で、かえって外国側にはよく知れているのに、支倉には日本のことがてんで分らないのだから、外国側をだませる筈はなかったのである。
政宗は外国の力をかりて日本征服の野心があったというような話は根のないことで、噂はこのへんから出ているのであろう。支倉もソテロも政宗が家康に対立し独自の政策を断行しうる唯一の人物だなどと毛頭考えていなかったであろうが、こう云わなければほかに相手を説得できそうな口実がないから仕方がない。彼に日本征服の野心などとはとんでもないことで、政宗は不意の禁教令に面食ったの面食わないの。支倉が日本へ帰りついたのは分っているが、彼のその後のことがてんで分らない事からも、田舎豪傑の狼狽ぶりが分るではありませんか。政宗がディオゴ・デ・ガルバリヨというバテレンはじめ九名の信徒を氷のはった広瀬川へ水漬けにして処刑したのは一風変った処刑として名高い話。政宗だけがそうではないのだ。もっと歴《れっき》とした本物の切支丹大名が家康の禁教令の断乎たるのに慌てふためき、にわかにそれぞれ迫害者になったのだから、田舎策師の政宗などは無邪気な方であった。
せっかく青葉城の天嶮に城下を定めても、とたんに天下の形勢が変って、もはや天下に戦争なしという時世の到来である。青葉山のテッペンに天守閣を築かず、スキヤ造りの家を造って本丸にかえたり、石垣をきずかず自然にまかせて本格的な築城をしなかったのを、彼の本性豪放の性の然らしむるところであり、しかも彼の風流心の致すところであるとでも考えたら大マチガイであろう。要するに、みんな見透しが狂ったのだ。その滑稽きわまる産物である。
考えてもごらんなさい。汗ッかきの拙者だけが音をあげたわけじゃアありませんや。築城した当の政宗先生が音をあげて、オレの次の代からは本丸をフモトへうつせよ、と遺言するような途方もない天嶮を選んだ以上は、大天守閣を造るのが当り前さ。そういう万全の戦備なければ選ぶべからざる天嶮じゃないか。スキヤ造りというものは、小イキな築山かなんかと相対してはいるにしても、まア平地的なところに在るべきもんだね。こんな断崖絶壁のテッペンへ造るべきものじゃアないね。
政宗にしてみれば仕方がなかったのだ。彼は田舎策師だから、人の策謀を邪推する。平和な時代に築城して、それにインネンつけられて亡されては大変だと思うから、石垣もつくらず、天守閣もつくらず、天嶮のテッペンへスキヤ造りをチョコンとのっけた。時世が変ってみれば、城山のテッペンがバカ高いので迷惑したのは政宗当人さ。後手々々と、やること為すこと、まったく御苦労千万な豪傑なんだね。
今でいうと何の病気だか知らないが「御腹ノ脹満囲三三尺八寸五分ナリ。御胸ヨリ上、御股ヨリ下ハ御|羸疲《るいひ》甚シ」という容態で、それを我慢して将軍へ今生のイトマ乞いに上京した。将軍の使者が見舞いにくると衣服を正して出迎えてアリガタイ、アリガタイと感動するから容態がそのために悪化したという。そして江戸で死んだのである。日本征服どころの話ではないのだ。青葉山築城以来その死に至るまで、一貫して必死に計っているのは伊達家のささやかな安泰ということだ。彼が必死の全力をこめて舟を造り海外貿易を志したと見たら大マチガイ。彼が必死に全力をつくしたのは支倉渡航の方ではなくて、そのモミケシ、後始末の方なのさ。彼の生涯はいつも後の始末に必死なのだ。いつも気のつくのが手おくれだから、仕方がなかったという彼の悲しい運命なのである。
支倉一行が舟出したという月の浦は牡鹿半島の西海岸にあるね。ちょうど自動車がその上の山道を走っているとき故障を起して四十分も動かなくなったので、自然に舟出の跡を見物しましたよ。ひどくヘンピなところだが、ここから舟出したということは、要するに、貿易をはじめたらここを長崎式の指定港にするツモリだったのだろうね。ヘンピな半島を選んだのは、やっぱり彼の本心が切支丹を好んでおらず、それが都に近づくことを敬遠したせいではないかね。
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名物にうまい物なし、で、伊達家時代から名題のうまい物などを探す方がムリではあるが、まったく何もないね。
「さんさしぐれ」という唄が天正頃から仙台にはやって残った名物だそうだ。しかし、仙台生れの唄ではないようだ。まったく上方調である。上方の方へ出陣した兵隊が、当時の都の唄を自分流に覚えて帰って流行したのだろうという話である。歌詞は男色をよみこんだものだという説をきいたが、なるほど兵隊から流行したのだからそうかも知れんが、私は歌詞を多く知らないから、なんとも云えない。しかし「さんさしぐれか茅野の雨か、音もせで来てぬれかかる、ショウガイナ」というのは男色的でもあるかも知れぬが、女色とみて不適当ではないし、その方に見るのがムリのない見方ではないかね。もっとも、ほかの歌詞については私には知識がない。
三代目の綱宗が例の吉原の遊女高尾事件を起して隠居謹慎し、その時以来、仙台から遊女屋を追放して塩竈へうつしたのだそうだ。ムダなことをしたものさ。男の子は往復に十里歩くムダがふえただけである。藩政時代には料理屋も市内におかなかったそうだ。そこで料理屋は町境いの木戸から外にズラッと並んでいたそうだ。元が五軒だったので、五軒茶屋と云ったそうだが、その一軒が今も残って五軒茶屋を名のっている。私はそこへ案内された。なぜなら、そこに仙台一の「さんさしぐれ」の唄い手がいるからである。
私が仙台で一番印象に残ったのは、この、「さんさしぐれ」の唄い手のミッちゃんという人である。もう四十いくつだそうだ。「さんさしぐれ」という唄は唄い方がむずかしいばかりで、どんな名人が唄ったって印象にのこるような唄ではない。私が感心したのは、このミッちゃんという人の唄い方だ。態度である。座敷で今までベチャクチャ喋っていた時とガラリと態度が変って、唄と戦争するような物凄い真剣な気魄がこもるのだ。これだけは見事でしたよ。イノチをこめて唄うのだ。ミジンも弛みがないね。全身に烈々気魄がはりわたっていますよ。唄には全然感動しなかったが、あの真剣な気魄には、私は思わず涙が溢れた。彼女の母も一生「さんさしぐれ」を唄って死んだんだそうだ。母ゆずりの「さんさしぐれ」を彼女も一生唄い通しているのである。仙台へ遊ぶ人は五軒茶屋でミッちゃんのすさまじい気魄のこもッた唄いッぷりだけ観賞するのを忘れなさるな。なおミッちゃんという人は芸者ではない。母の代からこの茶屋に住みついている唄い手だそうだ。座敷を一足でると、はりさけるような仙台弁で階下の帳場へ呼びかけて話をしている。これが仙台弁のききはじめだったが、全然わからないね。私も言葉が商売の文士であるし、生れは雪国の新潟で地域的には東北と通じないこともないから、仙台弁をきいても、だいたい判断できるだろうと思って旅立ったのである。とても、分らん。一言も分りません。
青葉山を降りてくるとき、お喋りしながら登ってくる十名ばかりの女学生とすれちがった。完全に一語も分らん。叫ぶ声まで、異様で、判断がつかないのである。私も自信を失って悲しかったね。文士だからねえ。言葉が商売なんだ。言葉と表情と場合とを綜合すれば、なんとか判断できるはずだと思っていたんだよ。ハッと思ってミッちゃんの言葉を書きとめておいたのを御紹介に及ぶと、
「ンだまア。ビッチラ、ビッチラ……」
あとは書きとめることもできない。意味は今もって分りません。全然一語も分らないのだから、一ツや二ツの言葉の意味をきいてみる気持にはなりませんよ。案内役の井上君は東北大学の出身、二年半仙台にいたのだから、なんとか判断はつくようだが、通訳がつとまるほどは分らないのである。ゴザリスデゴザリス、というのは分った。ゴザイマス、という意味のゴザリス、一ツだけでは敬意が足らないという気持で、もう一ツ足してゴザリスデゴザリス。敬語の発生は尊敬の念からだけではないね。もう一ツ、計略的な下心もありますね。言い訳。言葉だけで間に合そうという下心。とにかくゴザリスデゴザリス的な言葉は、時によって、きく人を悲しくさせるな。言葉は事実を正しく表現するために用いらるべきであろう。ゴザリスデゴザリス的な言葉から文化は育たない。ただ田舎風の策略が発達するだけである。伊達政宗的な言葉かも知れないね。
仙台は奥の細道の地であるから、仙台の目貫《めぬ》きの通りの芭蕉の辻というのはそのインネンの地かと思ったら、これが大マチガイなんだそうだね。あの芭蕉には全然関係ないのだそうだ。政宗は密偵を用いることを好み、常時諸方にスパイをさしむけていたそうだ。彼の用いたスパイは山伏もしくは虚無僧であったという。その数あるスパイの中で最も腕のあるのが芭蕉という山伏だか虚無僧だかであったそうな。文字までそッくり俳諧の親玉と同じなんだね。彼は正確な情報を提供して数々の功をたて、政宗に深く愛され、厚く遇せられたが、その功に報いるために、年老いて隠居した芭蕉に、十字路に立派な邸をつくッて与え、その辻を芭蕉の辻とよぶに至ったという。もっとも名スパイ芭蕉氏は松尾芭蕉氏と同じように、そんな賑やかなところはイヤだと山奥へひッこんで出てこなかったということだ。しかし仙台藩では長く芭蕉の功を忘れず、無人の芭蕉邸が火で焼けると藩の費用で再建し、それが明治に至るまでつづいていたそうだ。伝説としては甚だ面白いが、いつも見透しをあやまって後手ばかりふんでいた政宗だから、生涯まちがった情報ばかり受けとっていたようなものだが、名手芭蕉先生の大眼力がどういう情報を提供して功をたてたのかね。たぶん田舎の小大名相手の小競合《こぜりあ》いや火事ドロ的合戦の時の話であろう。
仙台市の物産は仙台ミソと仙台平であるが、現在の生産高は微々たるものらしい。三十五六万も人口があり、おまけに仙台市に住みきれない勤め人などが周辺の町村に七八万もいるという人口をもちながら、こんなに工場のない都市というのは珍しいのだろうね。ここへ来るまで、こんなに工場なしの大都市があることを私は考えていなかった。
これを物資の集散地というのかね。また地方官庁所在地かね。むかしは二師団所在地、つい先ごろまでは警察予備隊所在地、東北大学と、宮城刑務所という刑務所中の大物がある。終戦まで共産党はここに入れられていたし、小平はここで死刑になったね。要するに物資だけではなく人間の集散地でもある。したがって土着の市民は集散する物や人のサヤをとって生活しているようなものだ。こういう都市は
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