。あるいは群棲する哺乳類、否、動物の多くがそうなのかも知れない。人間だって、ツイ千年前ぐらいまではそうだったし、今でもそんな群棲状態をつづけているバカバカしいグループが日本のマーケットなどにいるのかも知れないね。
同じ三陸の漁場でも、塩竈や石巻やその他の漁町村とちがって、鮎川は湾全体が整然として、湾をとりまく工場や民家も、けっして特別に新式でも大規模でもないが、小ヂンマリとそれぞれの設備をもって明るく整頓している。クジラというものが大物だから設備なしに処理できないし、たった年に七百頭ぐらいの鯨でも、一ツの鯨専門の港を裕福にうるおすだけの力があるのだね。それに昔ながらの漁港は因習的で暗い。大漁の時はサイフの底をはたいて豪遊し、不漁の時はフンドシまで質に入れても間に合わない救いのない暗さが、街のどこにもしみついているようだ。そういう漁師の因習的なデカダニズムには救いがないね。現実と対応して工夫された新しい生活の設計がどこにもないのだもの。それをロマンチシズムとでも称するのはウソの大ウソというものさ。そこにあるものは無設計、無智、原始、愚昧ということだけだ。
クジラ専門の鮎川には、近代的
前へ
次へ
全50ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング