政宗は保護する。家康に対立して、こういうことができるのは、政宗と秀頼がいるだけだ」大きなことを云ってごまかそうと大汗たらしたが、全然ダメだ。当時(一六一六年)はすでに大坂城落城、とっくに秀頼は死んでましたよ。それも支倉は知らなかったかも知れない。日本の事情はバテレンからの報告で、かえって外国側にはよく知れているのに、支倉には日本のことがてんで分らないのだから、外国側をだませる筈はなかったのである。
 政宗は外国の力をかりて日本征服の野心があったというような話は根のないことで、噂はこのへんから出ているのであろう。支倉もソテロも政宗が家康に対立し独自の政策を断行しうる唯一の人物だなどと毛頭考えていなかったであろうが、こう云わなければほかに相手を説得できそうな口実がないから仕方がない。彼に日本征服の野心などとはとんでもないことで、政宗は不意の禁教令に面食ったの面食わないの。支倉が日本へ帰りついたのは分っているが、彼のその後のことがてんで分らない事からも、田舎豪傑の狼狽ぶりが分るではありませんか。政宗がディオゴ・デ・ガルバリヨというバテレンはじめ九名の信徒を氷のはった広瀬川へ水漬けにして処刑し
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