の油は良質であるばかりでなく、セミクジラの三倍もとれるし、何よりもマッコー鯨に限って群をなして泳いでいるので、大量捕獲に便利だそうだ。日本近海にはこのマッコー鯨が多いのである。
リューゼン香というものも、このマッコー鯨の体内に限って存在するのだそうだが、この物自体が天下名題の名香かと思ったら、そうではないそうだね。それ自体は悪臭の強いものだそうだ。これに香料をしみこませると発散せずにいつまでも香気を保つ作用があるのだそうだ。それで外国の高級香料にはリューゼン香が使用せられるのだそうだ。
私が鮎川の大洋漁業で仕込んだ智識の中でコレハ、コレハとおどろいたのを二三御紹介に及ぶと、ラケットのガットはクジラのスジで作るものの由。私が二年ほど前、双葉屋へガットを代えてもらいに行ったら、原料不足だから本物のガットがありませんぜとナイロンのガットで間に合わされたね。原料不足の段ではなく、日本はガットの原料国なのである。ただこれを製する設備がないので、原料をアメリカへ送ってガットにして逆輸入するのである。戦争前から、そうなんだとさ。バカバカしい。またクジラの血液から胃カイヨウの薬ができるし肝臓だかからヒッツジンという分裂病の薬ができるそうだ。どっちも近々御ヤッカイになりそうで恐縮しました。
鯨にはイワシを吸って生きているヒゲクジラと深海へもぐって大きな魚を貪食している歯クジラと二種類あって、マッコー鯨という奴は歯クジラの中でも、特に悪食の奴だそうだ。マッコーを捕えると、たいがい目の周囲のあたりに大きな吸盤のあとがついてるそうで、つまり深海でイカやタコの大物と大格闘している跡を歴然と残しているのだそうだ。また、大洋漁業の標本室にはマッコーの腹から出たヤシの実があったが、戦争中、海兵の靴が片方だけ、腹から出たこともあったという。油断のできないクジラである。
マッコーは群をなして泳いでいるが、時々一匹だけ泳いでいるのがある。これを「はなれマッコー」といって、マッコー鯨の大物はこれに限るそうだ。
マッコーの群は常に強力な牡クジラに誘導されている。年老いて精力衰えると、若く血気な牡クジラが老いたるクジラを追放して王者となる。追放された老鯨が「はなれマッコー」となるわけで、最も年老いた鯨だから時に五十尺にも及び、マッコーの大物はこれに限るということだ。同じような習性は、猿にもあるようだ。あるいは群棲する哺乳類、否、動物の多くがそうなのかも知れない。人間だって、ツイ千年前ぐらいまではそうだったし、今でもそんな群棲状態をつづけているバカバカしいグループが日本のマーケットなどにいるのかも知れないね。
同じ三陸の漁場でも、塩竈や石巻やその他の漁町村とちがって、鮎川は湾全体が整然として、湾をとりまく工場や民家も、けっして特別に新式でも大規模でもないが、小ヂンマリとそれぞれの設備をもって明るく整頓している。クジラというものが大物だから設備なしに処理できないし、たった年に七百頭ぐらいの鯨でも、一ツの鯨専門の港を裕福にうるおすだけの力があるのだね。それに昔ながらの漁港は因習的で暗い。大漁の時はサイフの底をはたいて豪遊し、不漁の時はフンドシまで質に入れても間に合わない救いのない暗さが、街のどこにもしみついているようだ。そういう漁師の因習的なデカダニズムには救いがないね。現実と対応して工夫された新しい生活の設計がどこにもないのだもの。それをロマンチシズムとでも称するのはウソの大ウソというものさ。そこにあるものは無設計、無智、原始、愚昧ということだけだ。
クジラ専門の鮎川には、近代的な大会社の資本がはいって漁法にも運営にも計画された設計があるから、昔ながらの漁港に見られる因習的な暗さがないね。
石巻ときたら、港から町の中心まで、船員相手のキャバレーだのパンパン屋だの、バアだのオデン屋だの待合だらけさ。中には、船員様のためのバア、などと書いたのもあるし、船員御用、船乗の皆さん、どうぞ、などというのもある。私の泊った宿屋では、しきりに石巻の芸者をよぶことをすすめたが、冗談じゃない。そんな芸者は見なくッても分ってらア。ムダに四十何年遊んで生きてきやしないよ。漁師町の芸者なんぞ、今さら見たいと思うもんかね。
鮎川はこの暗い東北でも半島の先端にとりのこされた漁港でありながら、石巻のように悲しくみじめな暗さが少いのは、漁港全体の運営に近代性があるせいだろうね。鮎川の明るさは仙台に比較しても云えることだ。東北は精神的に一つの鎖国状態なんだね。鮎川へきてホッとするのは、その鎖国に、ここだけは通風孔があいてるからだろう。鮎川には素直に東京の風が、日本の風が吹いている。仙台や石巻には、東京の風も日本の風も仙台的にゆがんで黒ずんで吹いてるだけさ。政宗という田舎豪傑の目のとどかない悲
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