伊豆半島の半分のミチノリもないチッポケな半島だが、往復八千円だ。旅館から駅まで七百メートル、歩いて十分の距離、東京なら百円もしないね。二百五十円である。窓を板でクギづけにした自動車の値段なのさ。
 こういう半島のドン底に鎮座している鮎川だから、署長さんは人間相手の仕事が殆どないのである。
「クジラと鹿の番人みたいなものですよ」
 と呟きながら、私たちを案内するために肩から拳銃の吊り皮をブラ下げる。規則によって、やっぱり一人前のカッコウだけはしなければならないそうだ。
「先日、署長会議で上京しましたが、日比谷の交叉点で、ゴーストップの信号をまちがえて、こッぴどく叱られましたな」
 ゴモットモ。ゴモットモ。
 私たちは大洋漁業へ行った。仙台からここまで、行く先々、会社も人間も、東北の人々と、東北の人々によって作られた会社であった。大洋漁業だけは、東北の人によって作られた会社ではなかったのだ。フシギなものだね。たッたそれだけで、もう、違うのだ。都会と東北の違いというものが、どことなしに会社の隅々ににじみでている。会社に働く人の大半は、同じように東北の人だろうけれども、なんとなく違う。牡鹿半島のドン底まで来て、私たちはむしろ都会を見たのであった。
 私たちは、妙に幸運なめぐりあわせであった。今は鯨のとれるシーズンではない。捕鯨船は一年中でているけれども、最も盛んなシーズンは六月から十月ごろまでだそうだ。そして年間にとれる数はといえば、昨年は甚しい不漁で、鮎川全体の会社で四百余頭、平均して年々七八百頭だそうである。その大部分は六月から十月のシーズンにとれるのだそうだ。ところが我々は、そのシーズンでもないのに、たった二時間ほど鮎川の地にいただけで、一頭のクジラの水揚げにぶつかったのである。
 それはミンク鯨であった。小イワシ鯨ともいうそうだが、一般にミンクと云っている。クジラというものには国際協定があって、何クジラは何十何尺以下は捕ってはならぬ、捕る期間はいつからいつまで、と規定があるのだそうだ。ミンクだけは規定がなく、年中捕ってもよいし、どんなに小さくとも構わない。もっともミンクという奴は、せいぜい二三十尺の小鯨なのである。しかし、日本人向きで、なぜなら、肉が大そううまいのだそうだ。外国人は殆ど鯨肉は食べないそうだね。
 とれたミンクは十八尺五寸という小さいものだったが、さすがにフカやマグロとは胴体の太さがちがうね。これで二トン半ぐらいはあるそうだ。もっとも私はむかし甚兵衛ザメ(エビスザメとも云う)というのを見たことがあった。これは頭の先端がサイヅチ式になっていて胴体の太さが鯨にまけない怪物であった。
 普通のキャッチャーボートは三百六十トンから四百トン、十四|哩《マイル》から十六哩の速力がでるそうだ。鯨の速力が十二哩から十六哩だそうだから、十六哩でるボートは大そう楽なゲームがたのしめるそうだね。ところがミンク相手の漁にはそんな本格的なボートはいらない。たった二十五トンか三十トンのボートでタクサンなのだ。ミンクという奴がいかに子供扱いされているかお分りであろう。その中でも特に小さい奴がとれたんだが、けっこう私はおどろいたね。とにかく胴廻りの太さが違うね。上へひきあげると大口あいてドロドロした舌をダラリとだしているが、タヌキのキンタマ八畳ジキというけれども、ミンクの舌でも私のネドコになるぐらい大きいや。それにドロドロの舌からもれる臭気かしら、ひどく鯨くさいな。私が戦争中閉口したのは、この臭気であった。ミンクの肉は美味だというし、サシミには特にうまいというが、この臭気がもれてくるからには、うまい肉のほかに、くさい部分もあるのであろう。署長さんの説によると、美味不味は肉の種類に存しているが、同時にクジラをさく時の処理の仕方にもよるそうだ。完全な設備をもった大工場で処理すれば臭気はないそうで、しかし、とにかく処理が終るまでには悪臭フンプンたる内臓の臭気がたちこめ、それを嗅いだが最後、別席で、いくら美味なサシミを出されても、素人は箸をださないそうだね。完全に処理を終った肉がまずくないことは私が証明しておこう。知らない人は牛肉だと思って食べてしまう。しかし私もミンクの口からもれてきた臭気をかいだあとでは、クジラの肉に箸をだす勇気はなかったろう。先に御馳走になって幸せだった。
 クジラといえば南氷洋と考え、近海捕鯨などはすでに絶滅に瀕しつつあるもののように考えていたが、必ずしも、そうではないのだね。亡びつつありと云えば、全世界のクジラが亡びつつあるのだろう。特に日本の近海捕鯨はその主たるクジラがマッコー鯨であるために、重大性をもつもののようだ。捕鯨業というものは往昔はセミクジラが主であったがマッコーの発見によって一大飛躍をとげたもののようだ。マッコー
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