なんだ。郷土的な、宿命的なものの責任を一人で負って狂おしいまでにあやつられているようなところがあるよ。私のお目にかかったお嬢さん方の多くは、大阪は好き、しかし大阪の男はキライや、という。なぜだろうねえ、大阪の男は立派ですよ。
大阪にミジメなものがあるとすれば、東京に対する対立感が強すぎることだ。人生は己れの最善をつくせば足るものであるが、東京はこうだ、東京に負けまい、と考えることは二流人の自覚でしかない。東京の人間は大阪に負けないなどゝ考える必要は毛頭ないのである。もっとも、アメリカはこうだ、フランスはこうだ、という二流人はいます。
京都の学者がそうである。東京を意識しすぎ、対立感をもちすぎる。学問や芸術に国境はないのであるが、郷土的な対立感をもつと彼の仕事は二流のものになってしまう。対立感は同時に劣等感ということだ。そこで彼らが優越を示そうと志すと、東京を否定せずに日本を否定します。東京に対する京都の優越はないからだ。何よりも自分の優越がないのだ。国境を超えて自立している仕事もないし優越もない。したがって優越を示すには日本を否定する以外にないし、なんによって否定するかというと、自分の優越がないから、外国の優越によって日本を否定します。桑原武夫先生はじめ京都のお歴々は主としてそうだ。
同じようなことは批評家にも当てはまる。彼らは自分自身が文学の生産者でないという劣等感によって、その優越を示すには、外国文学の名に於て日本文学を否定するという妙な切札しか持たないのである。
大阪にミジメなものがあるとすれば、東京を意識しすぎるということだけだ。それは己れを二流にするだけにすぎない。
大阪の男は狂おしいほどあやつられていますね。あの言葉がそうだ。彼らが甚しく実利的合理的であるにも拘らず、その言葉が感性的で、何物をも捉えずに、むしろ放そうとしているのは、理の怖しさや断定の怖しさを知りすぎるからだろう。理を知る故に、むしろ理が身についている故に、理に捉われる怖しさが分るし、理への反逆も起るのだ。大阪の言葉は怖ろしいまでに的確でありながら、同時にモヤモヤと、感性的なのである。大阪の言葉はファルスをつくるに最もふさわしい言葉の一ツであろう。だいたいファルス(道化芝居)というものは、理が身についた人間が、理をのがれようとしてもがき発するバクハツです。意味を知りすぎた人間が意
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