にとんでいるから、とても覚えられなかったのである。
私は道劇(正しくは道頓堀劇場と云うらしいが、劇場自体が幕にもプログラムにも手ッ取り早く道劇としか書いておらないね)というところへ行って驚いた。ここは大阪役者の人情劇とストリップと漫才をやる小屋で、最も大阪的な小屋の一ツなのであろう。
私たちの前に陣どっている三人づれの労働者は手にサントリーの大ビンをにぎり、グラスをのみまわしながら見物している。彼らはストリップ目当てにきているので、早くストリップをやれ、着物をぬげという意味のことを頻りに喚いているが、舞台では全く軽演劇の軽の字にふさわしくない人情悲劇を熱演中であるから、ストリップファンがイライラするのはムリもない。外題は「裁かれたる淫獣」という怖るべきものだが、内容はふざけた外題とは大ちがいのクスグリの一ツない大悲劇。浅草の即製品の軽演劇役者とちがって、曾我廼家《そがのや》式に年期を入れているらしく特に端役が揃って芸達者であるが、それだけにストリップとウマの合った軽快なところがない。今しも舞台は、主役の芸者が離れに酔いつぶれ、同席していた恋人に用ができて別室へ立ち去ったところ。芸者はコタツに足をいれて寝てしまう。と、芸者にふられて恨みをむすび復讐をちかっている盛り場のアンチャンが怪しき様子で舞台の一方からぬき足さし足現れてくる。
「来た、来た、来たア! 来てまッせえ!」
サントリーを握りしめた酔っ払いの見物人が叫んで、芸者に急をつげる。役者は先刻承知でしょうよ。しかし、こういうときの敬語が面白いな。その辺で着物をぬいでみせないか、という時でも、脱いでくれませんか、たのむ、という意味を言い廻しのややこしい敬語で云うから、エゲツナイことは確かだが、東京の言葉の世界では現すことも感じとることも出来ないナンセンスを現す。その敬語の言い廻しは実に相手の人格を最大限に認めて同時に自分は最大限にへり下った言い方であるから、エゲツないことをポンポン言っても、その角がたたない。大阪人がエゲツないことを言い易いのも、このせいかも知れない。東京の言葉は理づめで、断定的であるから、エゲツないことを云うと的確にエゲツナサだけに終るけれども、大阪の言い廻しは断定的でなく、逃げ路や抜け路や空気孔のようなものが必ずあって、全体として、とりとめなく、感性的なのだ。
しかし、この芝居には驚いた
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