れんし、第一、二度と同じ雑誌を買わないだろう。大阪人は案外物分りがいいから、賭け事の予想に絶対正確をもとめるようなヤボなところはないようだが、一応手をつくした努力の跡が見えて一応は理に合った実質がそなわらないと商品として通用できないようなところがあるようだ。
この実質精神や合理精神は大阪の長所であろう。誤植だらけの競輪雑誌が通用するような庶民精神の存在は賀すべきことではない。
浅草の「染太郎」では、よく「ホルモン焼き」というものを食わせる。臓モツのツケ焼きである。私は牛のキンタマを食わされたこともあった。「染太郎」とは死んだ漫才屋さんの芸名。そのオカミサンのやってるオコノミ焼き屋で、浅草の芸人たち愛用の安直な店。
「今日の食べ物はホルモン焼ッきや」
オカミがこう云うと、
「ありがたい。シメタ」
一膝のりだして相好くずす芸人連。特に私の目にアリアリ残るのは淀橋太郎である。この男の飲みッぷり食いッぷりは人に食慾を感じさせる。ジュウ/\煙のあがる臓モツに大口をあいて噛みつく。ムシャぶりつく、挑みかかる、というような食い方をする。そして、ウマイ! というような嘆声を発する。しかし、こういう食い方は淀橋太郎一人のものではなく、概してホルモン焼きに噛みかかる人たちが共通に示す食いッぷりのようでもある。焼きたてのアツイうちに、というような必然的な要求に応じているのかも知れん。
私はどうもホルモン焼きは苦手である。時には、うまいナ、と思う時もあるけれども、ムシャぶりかかるような食い方をすることができないのは、やっぱり本当に好きではないせいだ。つまり、物の味が分らん人間なのである。支那やフランスなどの料理の発達した国では、肉よりもモツの方が値が高いそうだ。牛の脳ミソやシッポなどは特に珍重される由。以前は脳ミソやシッポは牛肉屋がタダでくれたそうだが、高級フランス料理店が買い占めるようになって手にはいらなくなったと林達夫先生がこぼしていたものだ。
そんなに珍味なのか、よし、やろう、というので、これをお好み焼きにしたことがある。臭い物だよ。特別な調味料で、特別な料理法があるのであろう。しかし、よろこんで食った豪傑もいた。私はもう匂いだけで吐きそうになった。
ホルモン焼きというのは染太郎のオカミサンが勝手にこしらえた言葉だと思っていた。彼女も漫才屋の内儀であり、こういうエゲツな
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