ったいま彼女にかけてやったばかりの眼鏡を再び取りはずした。
「これがキミの可愛いそして本当の素顔だよ。ね。眼鏡は余計ものなんだ。もう、この眼鏡はかけない方がいいと思うんだ」
「眼鏡だってアクセサリーの一ツだわ」
「キミには有害無益のアクセサリーだよ」
「趣味の問題よ」
「そう。しかし、キミの悪趣味だ」
「本当に、そう思う?」
「むろん。しかし、眼鏡はキミの自由にまかせるが」と眼鏡とコンパクトを彼女に返して、「人の意見も一応耳に入れておきたまえ。ところで青春をたのしみましょうという提案に対する御返事は?」
「アナタのような悪人、はじめてよ」
「人生を割りきってるだけのことなんだ」
「割りきれる? 人生が?」
「割りきるべきだよ。キミにも割りきることをすすめるね。で、キミの御返事は?」
「強引すぎるわ。私、混乱してるの。あしたここで御返事するわ。いまの時刻に」
 水木由子は本や眼鏡やコンパクトを両手に持ったまま、身をひるがえして駈け去ったのである。
 松夫は一時に春が訪れたような解放感に目マイがした。自分の所業があまりにも「偉大」であったことを身にしみて感じた。偉大な態度。偉大な言葉。
「オレは人生を割りきっているだけだ」とは、なんて壮大な言葉だろう。彼の今までの人生におよそ無縁な、そして、その瞬間まで思いもつかなかった言葉だ。オレの人生が割りきれたら、と今までどんなに切歯扼腕したか知れやしない。一瞬間に、突然別世界へ走りこんでいたのだ。その晩、彼は綾子とのアイビキの時に、かなりよそよそしい態度を示した。綾子は次第に不キゲンになった。
「もう私が好きじゃないんでしょ。そうでしょう」綾子は強引でワガママだった。受身なのは松夫なのだ。彼女に高飛車にきめつけられると、松夫はヘドモドしてしまう。グッと踏みこたえて偉大な威厳を見せることは、彼女に対してはもう不可能なのである。彼が彼女に威厳を見せる手段と云えば、彼の方から別れようと云いだすぐらいのものだが、それが云えるぐらいなら苦労はしない。ジッと睨んでいる綾子から目をそらして、松夫は細い声で答えた。
「卒業試験も近づいたし、就職試験の結果はまずいし、とても毎日がつらいんだ」
「アナタなんか、二三年落第した方がいいわよ。学校を卒業してみたって、おぼつかないわよ」
 事務員の綾子は松夫よりもお金持であった。松夫の方がおごられる率が多いので、総てにヒケ目を感じてしまうのである。その一夜、松夫は胸の中でこう呟きつづけた。
「オレに必要なのは革命だ。偉大な革命! 今日行われたあの革命。あの解放感! オレにだって、いろいろなことが、できるのだ」

          ★

 翌日、彼はわざと三十分ほど時刻におくれて校外の庭園におもむいた。宮本武蔵の故智にならったのである。そして、これが自分の真剣勝負だと考えた。水木由子と自分のではなく、自分と自分の未来との生き方を決する真剣勝負だと考えた。これに勝てば自分の未来に勝つことができると考えたのである。
 松夫はアレコレと多くのことを考えていた。たとえば、水木由子はもう今日からはロイド眼鏡をかけないだろうと考えた。それは水木由子が彼の革命に参加したシルシなのである。そして二人はともに解放の喜びにひたる。つまり、植込みの蔭にロイド眼鏡をかけていない水木由子が待っていたなら、すでに真剣勝負は彼の勝に決しているのだ。
 しかし、水木由子がまだ眼鏡を捨てることを知らずに彼を待っていたなら、それはたぶん彼女の心がその素顔と同じようにまだ稚いせいだろう。彼女は書斎の恋愛心理に通じていても、実地の真剣勝負にはうといのである。その稚さは、革命家にとっても、むしろ慈しむべきであろう。そして、その場合には、当然彼の手がその眼鏡を取り除いてやるべきであるが、眼鏡を投げ捨てて踏みくだくべきか、静かに彼女の手に返して理をジュンジュンと説くべきであるか、彼はいまだに迷っていた。むしろそれは成行きにまかせようと考えていた。しかし、樹蔭のベンチのところへ来てみると、そこに腰かけているのは見知らぬ男女の学生であった。そして、植込みの向うの芝生には誰の姿もなかった。
 彼女の代りに、彼が芝生に腰を下した。そして、彼女の残した目ジルシが何かないかと探してみたが、彼女がそこにいたという形跡を認めることはできなかった。
「アイビキと剣術の決闘をごッちゃに考えたのはマチガイだったか。革命、真剣勝負という自分の一存にこだわりすぎて、心理学の常道を逸脱したウラミがあるかも知れない」と彼ははじめて気がついた。剣術の決闘だから相手を待っているが、恋愛は汽車と同じように人を待たないのかも知れない。
 しかし、彼は根気よく三十分ほどジッと待った。それから庭園内をぐるぐる探し廻って元の位置へ戻ってみたが、どこにも水木由子を認めることはできなかった。
 しかし、革命はまだ終らない、と彼は根気よく考えた。彼は学校へ戻った。そして、広い校内を彼女の姿を探して歩いた。どこにも彼女の姿は見当らない。その翌日も、またその翌日も、彼女にめぐり会うことはできなかった。彼の革命の意気ごみはにわかに衰えた。一夜ごとに半分ずつしぼんだあげく、三日すぎるとマイナスの方に傾いて、彼女にめぐり会うことの怖しさのために学校へ行くことができなくなってしまった。
 水木由子の手を握った自分の手がケダモノの手のように考えられる。思いだすと赤面せずにいられない。そして、思いだすことが怖しくて、その怯えだけで冷汗をかいた。水木由子は扉にはさんだ手をひきぬくような真剣さで抵抗した。ついには彼女自身の手を土の中の山の芋のようにゾンザイに扱って、無法に荒々しくひッこぬこうと努力したのである。それが彼女の彼に対する正しい気持であったに相違ない。要するに彼はケダモノにすぎないのだ。アイビキの約束はケダモノの目をそらすために投げられたエサにすぎなかったのであろう。ケダモノが見た革命の幻覚ほど愚かにもアサハカなものはない。
 松夫は握り返した綾子の手を考えることもできなくなった。なぜなら、それを考えると、水木由子の手を握った自分の手、ケダモノの手を思いださなければならないからである。
 彼は改めて綾子すらも一まわり怖しいものに見直すようになった。彼自身の見ているものが概ねケダモノの甘い幻覚にすぎないのではないかという劣等感に憑かれてしまったからである。
「アナタ、ちかごろ気がぬけたみたいよ。時々フッと消えてしまうみたいよ。ふりむけばちゃんといるでしょう。つまり、アナタ、しょッちゅう放心してるんだわ」
「そうでもないです。就職もダメだし、試験もダメらしい。気がめいることが多いので、ついね」彼は仕方なしにヘラヘラ笑って答える。自然に敬語で答えていたりするのである。綾子はその変化に容赦しなかった。
「変に卑屈だわね。全然三下って感じ。どこにも取柄がないみたいよ」
「つまり、たしかに、三下なんだ」
「赤くなっちゃったじゃないの。いくらか羞しいの? 怒ったの? どッち?」
「習慣的にすぎないです」
「こまった人ね。でも、いいわ。私、三下って、わりと好きなのよ」
「親分は?」
「むろん好きよ。でもね。親分には甘えたいわ。可愛がってもらいたいのよ。親分のオメカケ」綾子はいつも彼をハラハラさせた。彼の手の中からいつでもずり落ちそうな感じだ。彼女が会社のボスのオメカケにならないのはなぜだろうか。会社のボスが堅造なのか、彼女に腕がないのかと松夫は嫉妬した。
 むろん綾子は口ほどではなかった。彼女は健全な良妻になりたがっているのである。ただ、松夫の良妻になりたいかどうかが問題なのだ。彼女の話ぶりでは、松夫の人格は認められていないようであった。
「アナタは二三年落第した方がいいのよ。学生にはアルバイトってこともあるし、人目も寛大だけど、卒業するとそうはいかないわよ」
「どうせ卒業できないよ」
「そう思うからダメなのよ。こう考えるのよ。永遠の大学生。ステキじゃない」
「永遠の三下と同じ意味だね」
「よく知ってるわね。悪い方、悪い方へ智恵がまわりすぎるのね。人生は表現の問題だわ。明るく生きよ。詩に生きよ」
「永遠の大学生が詩なんだね」
「詩的表現。永遠の三下が現実かも知れないけど、気の持ちようでどうにでもなるもんよ」
「ボクは、しかし、学校を卒業して、就職できて、キミと結婚したいんだ。それが偽らぬボクの気持だけど……」
「はやまるのは身の破滅よ」
「はやまるわけじゃないよ。すでに学校を卒業して就職する時期に来てるんだもの」
「だって、落第するでしょう」
「しないかも知れないよ」
「就職できないでしょう」
「だから、あせっているのさ」
「ムダだわね。私はアナタが学生だから恋したのかも知れないわよ」
「それはキミの本心かい」
「本心て、なにさ」
「ボクを永遠の大学生にしたいのかなア」
「そうよ。それが好きなのよ。でもね。来年もいまの気持とは限らないでしょ。だから、本心って言葉は無理みたいね。いまの心。いまだけよ」
 落第すれば、まだ当分は脈があるらしい様子でもあった。松夫はもう二度と誰とも恋ができないような予感がして仕方がなかった。最近に至って特にそうだ。早い話が、彼はもはや誰の手を握る勇気も起るまい。誰に話しかけることもできない。目を上げる勇気すらもない。恋し得た最後の女、そして結局一生に一人の女が綾子のような気がする。完全だの純粋などという愛や恋のことではなく、あらゆる打算のあげくが、この女一人、である。最後の一文という乞食の愛情である。赤貧のドン底だ。無一物。ギリギリのたった一ツ。それにしては綾子は美人だ。映画館で拾った女のようではなかった。それだけに胸が痛む。今にして思えば、映画館で拾われたのは松夫の方であった。拾われるのも、これが最後であろう。どうしても綾子を放せない気持が強まるばかりであったが、その気持を強く押しつける勇気は衰える一方だ。自分の中にいかなる実力の存在も信じることができなくなってしまったからである。たった一日の革命以来、急速度に没落してしまったのである。

          ★

 試験のとき、松夫はしばしば水木由子と顔を合わせなければならなかった。水木由子は平然としていたが、松夫はいつも急いで目をそらして心の中では宙をふむほどオドオドしなければならなかった。むろん水木由子はロイド眼鏡をかけていたが、その眼鏡が鋼鉄の兵器のようにすさまじい力で彼を圧倒した。彼はそれに怯えた。そして、その眼鏡から聯想しなければならないのは自分のケダモノの手だ。そのために一そう眼鏡に怯えてしまう。鋼鉄の兵器に狙われた一匹のケダモノのように身も心もすくんでしまうのだ。
 松夫の最後の試験の日、その試験のあとで偶然水木由子にすれちがった。彼女は一人であった。あたりには人がいなかった。彼が落第しても水木由子は卒業するに相違ないから、これが彼女の見おさめであろう。彼女が一人で、またあたりにも人影がないのを見ると、松夫はこの機会にケダモノの手を拭き消したいということをふと思いついた。ケダモノの手の怯えは彼の堪え難いものだった。生きる限りこの手と共にいなければならないという事実ほど絶望的なものはなかったのである。
 松夫は水木由子に追いついて、よびとめた。脱帽すると、彼の頭も額も汗でいっぱいで、それは益々無際限に溢れたって湯気をふいた。赤面してオドオドし、いまにも卒倒しそうな様子である。革命時の颯爽たる武者ぶりにひきかえ、あまりにもサンタンたる有様であるから、水木由子は落ちついて上から下まで彼を観察する余裕を得ることができた。
「ボクのケダモノの手について、お詫びしておきたかったのです。たぶん、お目にかかるのはこれが最後でしょうから、この機会を逃すと、ボクは一生、ケダモノの手に苦しまなければならないのです」
「ケダモノの手?」
「そうです。それがボクの表現です。いえ、ボクの実感なんです。そのために苦しんでいます。その苦しみはいまアナタにお詫びして許していただくことができても消えないかも知
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