れませんが、この機会にお詫びせずにいられなかったのです。ボクはアナタの手を握ったことで苦しんでいます。そのボクの手が毛だらけのケダモノの手に見えるのです。これほど絶望的なことはありません」
 水木由子のロイド眼鏡に筋金がはいってピンとはりきったような感じがした。つまり松夫の話の途中から、彼女は女ではなくなって、心理学者に変ったのである。眼は学者のものになりロイド眼鏡と一つになってケンビ鏡のように冷徹に哀れな生物を観察しはじめたのである。
「いつから、そう見えるんですか」
「アナタの手を握った翌日か、翌々日ぐらいからです。ボクは翌日約束の場所――いえ、アナタがケダモノをだますために仰有《おっしゃ》ったのですが、ボクはその場所へ行きましてアナタの姿が見えないので、それで次第に自分がケダモノにすぎないということに気がついたのですが、しかし、ボクは誰に対しても再びあのような失礼は犯さないつもりです。しかし、アナタの手を握ったケダモノの手はあの時以来、また永遠に消えないのです。こうして、お詫びしても消えないかも知れません」
「目に見えるのですか」
「まさか。ボクは狂人ではないのです。幻視ではありませんよ。ただ思いだすと、すくむのです。絶望するのです」
「狂人ではないと思いこんでいますか」
「むろん、そうです。ボクは平凡な、むしろ無能者にちかい平凡人です。もう悪いことすらできないような無能者なんです。ですから、せめて罪のお詫びだけしておきたかったのです」
「ずいぶん汗がでてますね。駈けたんですか」
「いえ。お詫びしたいために、こんな風に汗がでてくるのです。つまり、それほど、ケダモノの手に苦しんでいるのでしょうね」
 婦人科学者は分りましたというようにうなずいた。そしてしばらく考えている様子であった。観察が終ったせいか、ケンビ鏡の筋金がほぐれて、ロイド眼鏡にいくらか女の情感がこもってきたようであった。水木由子は顔を和げた。そして女医サンが子供の患者にさとすようにやさしく云った。
「アナタの手はケダモノの手じゃなかったわ。とても立派な男の手だったのよ。だから私、手クビの痛いのが、とてもうれしかったわ。あくる朝、目がさめてからも、まだ痛いでしょう。うれしかったのよ。うっとりと、手の痛みを味わったのよ」
「許して下さるんですね」
「むろんですとも。もともと怒っていないのですもの。うっとりさせて下さったのですもの、感謝こそすれ、怒るはずないでしょう」
「慰めて下さって、うれしいです」
「アナタ、もっと強く生きなければダメよ。クヨクヨと思いめぐらしたって、人生はひらかれないわ。叩けよ、開かれん、というでしょう。その叩く手がケダモノの手のはずないでしょうね。叩く手は乱暴よ。人生をひらくんですもの。でもケダモノの手じゃないわ、立派な手よ。人間の立派な手」
「御教訓、身にしみます」
「もう本当にお別れね。お身体、御大事になさいね。もうみんな済んだことですから気軽に云えるけど、私あの日、約束の時刻にお待ちしてたのよ。眼鏡を外してアナタをお待ちしてたのよ。アナタの遅れたのがいけないのだわ。縁がなかったのね、でも、それがよかったのよ。もう、みんな、すんだことですもの。もう取り返せないことよ。でもね。手クビの痛さ、忘れないわ。御大事にね」
 水木由子は静かに去ったのである。
 松夫は叩けよ開かれんの教訓にしたがい、学校から水木由子の住所をきいて求愛の手紙をだしたが返事はこなかった。もう取り返せないことよ、という彼女の言葉が教訓以上の真実だったようだ。縁がなくてよかったわ、という彼女の言葉も。



底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
   1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「別冊小説新潮 第八巻第六号」
   1954(昭和29)年4月15日発行
初出:「別冊小説新潮 第八巻第六号」
   1954(昭和29)年4月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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