握った手
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)咒《のろ》っていた
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松夫はちかごろ考えすぎるようであった。大学を卒業して就職できたら綾子と結婚しようと考える。以前はそうではなかった。かりそめの遊びの気持であったが、だんだんそうではなくなって、必ず結婚しなければ、と考えるようになった。
彼が考えすぎるにはワケがあった。松夫と綾子との出会いは甚だしく俗悪で詩趣に欠けているのである。ある映画館であった。隣席の娘が愛くるしいので松夫は心が動いた。映画のラヴシーンと現実とが、一時的に高揚して、アッと思うヒマもなく隣席の娘の手を握ってしまったのである。
松夫は美しいひとの顔をマトモに見ることができないような内気で、すすんで美女に話しかけるような芸当は望んでも得られぬことであった。彼は内気を咒《のろ》っていた。すすんで美女に話しかける勇気が欲しいということは彼のかねての願望で、その一ツの勇気によって自分の人生に大転換が起るはずだがと考え、内気を咒って味気ない日々に苦しんでいたのであった。
その彼が見知らぬ娘の手を握ったのは、その時彼の魂がどこかへ抜け出ていたせいだ。多少の勇気も加味されていたかも知れぬが、要するに一期の不覚と申すべきものであった。しかるに娘がその手をきつく握り返したから、軽犯罪法のお世話に相成るべき不審の挙動が天下晴れての快挙と相成り、福は禍の門と云うが如くに禍根を残すこととなった。
松夫は一度だけこう云った覚えがある。
「君が隣席へ坐った時からキレイな人だなアと思っていたのだよ。それで映画に亢奮するとつい衝動的に握っちゃったんだ。君が握り返してくれた時にも、まだボンヤリしたままだったよ」
すると綾子も一度だけこう答えた。
「私もあなたが一目で好きになったのよ。フラフラッと隣へ坐っちゃったでしょう。見抜かれたみたいで口惜しかったわ。ヨタモノだと思ったわよ。でも、握り返しちゃったのよ。蓮ッ葉に思われるのが辛いわ」
この会話は一回きりである。二人の仲が深まり、遠慮がなくなるにつれて、このことにだけは再びふれなかった。
綾子への情が深まるにつれて、松夫は彼女の握り返した手にこだわった。むろん先に握った自分の手もイヤではあったが、それはこの際問題ではない。綾子はあのような時、誰に対してもあのように応じるのではないかと思いめぐらして苦しんだのである。
考えすぎるのはいけないことだ、とむろん彼も心得ていた。しかし、自然に考えてしまうものは仕方がない。これも愛情のせいなのだ。愛情が深まるにつれて、彼は綾子の握り返した手にこだわった。苦しみは日ましに深くなったのである。
そもそも映画館で手を握ったという事の起りが俗悪すぎるのだ。考えれば考えるほど救いがない。したがって、先に手を握った自分の行為というものは思いだしても毛虫に肌を這われるような思いがするのであったが、その不快さも綾子の握り返した手を考えると忘れてしまう。それは不快さとはワケがちがう。不安なのだ。嫉妬でもあるし、恐怖でもある。
「蓮ッ葉に思われるのが辛いわ」と綾子は云った。いかにも健全にきこえるが、思えば思うほど月並でもある。そもそもいかなる女でも、あのような仕儀の処理に際しては、そのように述懐するに相違ないように思われる。ということは、それがキマリ文句であるように、握られた手を握り返すということも、彼女らにとってオキマリの月並な行為にすぎないのではないか、ということだ。
「キミは男にソッと手を握られたとき、必ず握り返すんじゃないのかなア」
ということを何べん口走りそうになったか知れない。しかし、松夫はタシナミを心得ていたから、こればッかりは云わなかった。袖の下を握りしめた政界の大物と同じように、秘密については口を割らないタシナミを心得ていたのである。
しかし彼は綾子に向ってそう問いかけた場合を空想することは毎日の例だった。彼が秘密の口を割らないのは彼女の痛いところにふれ彼女を苦しめるに至ることを厳に慎むからであったが、空想の中に於ては、彼女はむしろ彼に怒り彼を軽蔑するのである。ということは、彼女がその秘密を月並に仕出かす女だからであり、それを彼が何より怖れていることがそもそも空想の起りだからであった。
「こうこだわるのは不健全だ」
と考えて想念を払うために努力するのを忘れたタメシはないのだが、日ましに想念に苦しむ時間が長くなった。そのアゲクに変なことが起ったのである。
★
大学の同級生に水木由子という女学生がいた。彼女が心理学に凝っているのは有名だったから、松夫も知っていた。彼女は寝ても覚めても人間の心について考えているらしく、易者よりも手際よく人の心という心をズバリズバリと手玉にとるコンタンのように見受けられたのである。そのアゲクとして彼女はすでに天眼通の如くに胸の秘奥を見当てる力があるらしいと脅威する向きもあり、その反対に、彼女が心理学に凝ったのは心理学の名村先生に惚れてるせいにすぎないと断定している向きもあった。名村先生は冥想的な美貌の紳士で、その講義には宗教的な催眠力がこもっていると見る向きもあり、水木由子はそのトリコにすぎないと断定するのである。水木由子は大学生になって二月目ぐらいに近眼でもないくせにロイド眼鏡をかけるようになった。そして眉の根に小ジワをよせてからでなければ物を云わないようになった。これも要するに、彼女は入学二ヶ月目に大学というフンイキに催眠されたせいであり、彼女のトリコになりやすい天性を示すものだと説をなす者もいたのである。
松夫も水木由子のロイド眼鏡と眉の根に寄せる小ジワに興味をもっていた。松夫のような内気な人間は、物を乞うことが少い代りに甚だ人の悪い観察をしているものなのだ。彼女が政治に凝らないのは世のため人のため大助かりだなぞと考えた。ロイド眼鏡と小ジワと読書と冥想と人間観察の代りに、彼女がカバンをかかえて東奔西走し、あの街角この広場で絶叫する様を想像したのである。政界の大物に惚れたあげく、彼女の胴も政界の大物と同じぐらいみるみるブクブクとふとる光景なぞも考えた。
しかしロイド眼鏡と小ジワを寄せなければ彼女はあどけない可愛い顔立ちであった。ロイド眼鏡をかけないうちから松夫は彼女の素顔に目をつけていた。松夫は伏目がちに暮しながら美人を見逃さない技能があった。水木由子がロイド眼鏡をかけた時には人一倍仰天した彼であったが、眼鏡も小ジワも板について読書と冥想と観察の虫のように殺気横溢している今日この頃では、とうてい近づきがたい存在としてサジを投げていたのである。
校外に小さな博物館と広い庭園があった。孤独と想念に疲れはてた松夫がその庭園に迷いこんで樹蔭のベンチに腰かけていると、植込みの向うに水木由子が芝生に腰を下して読書しているのに気がついた。植込みを取りのぞけば二人の距離は二間か三間の近さであった。水木由子が先にそこにいたのである。
むろん挨拶するような仲ではないから、彼女が知らないフリをして読書をつづけていることにフシギはなかったが、彼女は彼の出現に気附いたのか気附かないのかと考えた。
「気附かないはずはない。いかに読書の虫にしても、若い女がそれほど男というものに冷淡のはずはない」
後から来た松夫が音もなく読書している彼女に気附かなかったのにフシギはないが、それでもやがて気がついている。想念のトリコとなったウツロの目にもやがて彼女の存在は映じたのである。
「それとも彼女だけは超越した存在かな? イヤイヤ……」
読書と瞑想と観察の殺気横溢している今日この頃の彼女には、あるいは人間観察も秘奥に達したかと伺われる威厳もあつて、松夫も若干脅威を感じることがあったのである。それにしても、若い女が男から超越することができるであろうか。
「この女心理学者先生の手を握ったら、彼女は握り返すだろうか」
と松夫は考えた。ロイド眼鏡以前のあどけない素顔を思いだして彼女を甘く見る傾向もあって、今日この頃の彼女の威厳に必ずしも全面降伏していたわけではなかった。
彼女は心理学の達人である。してみれば彼女自身の心理に於ても人間として例外ではないだろう。自分という土台があって、はじめて人の心も解ける道理だから。むしろその土台たる彼女自身は普通人の心理一般を最大の振幅に於て蔵しているのかも知れない。
「もしも女一般が握られた手を握り返すものなら、彼女もそうするにちがいない。そして彼女がそうしないとすれば、それは綾子だけが例外だということになりうる」その例外は困ったことだと松夫は思った。しかし、もしもそうときまれば、もはや綾子に用はない。綾子は忘るべきである。そしてこの可愛い女心理学者に乗り変えるべきである。松夫はこう考えたが、それは水木由子を甘く見たせいではなかった。水木由子に対する愛情がにわかにどッと溢れたせいだ。この唐突な愛情がどこからそもそも湧いてきたのか意外であったが、その瞬間に、彼は溢れたつ感情にモミクチャになっていたのであった。
彼女の手を握ってためしてみたいと思った。そこが映画館でないことを思いだすヒマはなかったのである。彼女の見ているのはラヴシーンでなくて心理学の本であるのを考えるヒマもなかった。さすがに白昼の庭園であることだけは知覚していたからあたりに人影ありやなきやと見定めることは忘れなかった。突然彼は何かに押されて歩いていた。彼女の前で、彼女の姓をよんで帽子を脱いで一礼した。そして彼女に目を上げて彼を見るだけのヒマしか与えず、跪いて彼女の手を押え握りしめたのである。
「突然の失礼をお許し下さい。読書をさまたげて残念です。しかしボクはアナタを愛していました。そしてボクは突然こうするほかに方法を知らないような男ですから、悪く思わないで下さい」
「痛いわ。よして」
と水木由子は松夫の言葉には全くツリアイのとれないことを云った。そして片手で松夫の手くびを握り、扉にはさんだ手を無理に抜きとるような真剣な作業に没頭しはじめたのである。松夫はかなりしばらく彼女の手を押えていた。彼女が予想外のことをやりだしたから、処置に窮したのである。押えているうちに、なんとかならないかと思った。しかし彼女の作業が長い山の芋をムリにも引きぬくような無法な荒々しさになり、とうてい詩情のまじる余地がないと見てとって手を離した。
彼女は本を拾って、一足退いて立ち上った。本と一しょにロイド眼鏡も外れて地上に落ちたのだが、もともと近視ではなかったから眼鏡がなくても天下の大勢に変化はないらしく、眼鏡まで拾っている算段はつかなかった様子であった。
「見かけによらないわね。なんて強引なんでしょう」
水木由子は本を小脇に抱えて、男に押えつけられた手を自分で握りしめながら云った。松夫には云うべき言葉もなかったので、地上の眼鏡を拾いとり、彼女の眉の根のちょうど小ジワのよる場所へかけてやった。なぜなら彼女は後退するばかりで、それを受けとるために手を差しださなかったからである。素直に眼鏡をかけさせてから、彼女は云った。
「図々しいわ。図ぶとい人ね。あんなことをしてニヤニヤ笑っているのね」
こう怒られても仕方がなかった。苦笑ともテレカクシともワケの分らぬ笑いが顔にからんで放れないのだ。彼は笑いを咎められたので、笑いを隠すために図太く出て見せなければならなかった。
「ボクたちは青春をたのしもうよ。キミの年齢で本の虫になるなんて、バカらしいよ」
冷静な声だった。彼は自分が意外にもフテブテしいのを、このときはじめて見たのである。彼はもう成行にまかせるばかりであった。そして、彼女を見つめて、言葉をつづけた。
「キミはこのへんで本と眼鏡に袂別《べいべつ》すべきじゃないか。キミの一生にとって、それはどうせ一時期のものにすぎないのじゃないか」
「そんなこと、どうして云えるのよ」
「待ちたまえ。キミ、コンパクト、持ってるね。貸してみたまえ」
彼はコンパクトを受けとると、鏡を彼女の顔にかざし、た
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