言葉もなかったので、地上の眼鏡を拾いとり、彼女の眉の根のちょうど小ジワのよる場所へかけてやった。なぜなら彼女は後退するばかりで、それを受けとるために手を差しださなかったからである。素直に眼鏡をかけさせてから、彼女は云った。
「図々しいわ。図ぶとい人ね。あんなことをしてニヤニヤ笑っているのね」
 こう怒られても仕方がなかった。苦笑ともテレカクシともワケの分らぬ笑いが顔にからんで放れないのだ。彼は笑いを咎められたので、笑いを隠すために図太く出て見せなければならなかった。
「ボクたちは青春をたのしもうよ。キミの年齢で本の虫になるなんて、バカらしいよ」
 冷静な声だった。彼は自分が意外にもフテブテしいのを、このときはじめて見たのである。彼はもう成行にまかせるばかりであった。そして、彼女を見つめて、言葉をつづけた。
「キミはこのへんで本と眼鏡に袂別《べいべつ》すべきじゃないか。キミの一生にとって、それはどうせ一時期のものにすぎないのじゃないか」
「そんなこと、どうして云えるのよ」
「待ちたまえ。キミ、コンパクト、持ってるね。貸してみたまえ」
 彼はコンパクトを受けとると、鏡を彼女の顔にかざし、た
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