ア」
ということを何べん口走りそうになったか知れない。しかし、松夫はタシナミを心得ていたから、こればッかりは云わなかった。袖の下を握りしめた政界の大物と同じように、秘密については口を割らないタシナミを心得ていたのである。
しかし彼は綾子に向ってそう問いかけた場合を空想することは毎日の例だった。彼が秘密の口を割らないのは彼女の痛いところにふれ彼女を苦しめるに至ることを厳に慎むからであったが、空想の中に於ては、彼女はむしろ彼に怒り彼を軽蔑するのである。ということは、彼女がその秘密を月並に仕出かす女だからであり、それを彼が何より怖れていることがそもそも空想の起りだからであった。
「こうこだわるのは不健全だ」
と考えて想念を払うために努力するのを忘れたタメシはないのだが、日ましに想念に苦しむ時間が長くなった。そのアゲクに変なことが起ったのである。
★
大学の同級生に水木由子という女学生がいた。彼女が心理学に凝っているのは有名だったから、松夫も知っていた。彼女は寝ても覚めても人間の心について考えているらしく、易者よりも手際よく人の心という心をズバリズバリと手玉にと
前へ
次へ
全24ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング