オレは人生を割りきっているだけだ」とは、なんて壮大な言葉だろう。彼の今までの人生におよそ無縁な、そして、その瞬間まで思いもつかなかった言葉だ。オレの人生が割りきれたら、と今までどんなに切歯扼腕したか知れやしない。一瞬間に、突然別世界へ走りこんでいたのだ。その晩、彼は綾子とのアイビキの時に、かなりよそよそしい態度を示した。綾子は次第に不キゲンになった。
「もう私が好きじゃないんでしょ。そうでしょう」綾子は強引でワガママだった。受身なのは松夫なのだ。彼女に高飛車にきめつけられると、松夫はヘドモドしてしまう。グッと踏みこたえて偉大な威厳を見せることは、彼女に対してはもう不可能なのである。彼が彼女に威厳を見せる手段と云えば、彼の方から別れようと云いだすぐらいのものだが、それが云えるぐらいなら苦労はしない。ジッと睨んでいる綾子から目をそらして、松夫は細い声で答えた。
「卒業試験も近づいたし、就職試験の結果はまずいし、とても毎日がつらいんだ」
「アナタなんか、二三年落第した方がいいわよ。学校を卒業してみたって、おぼつかないわよ」
 事務員の綾子は松夫よりもお金持であった。松夫の方がおごられる率が多
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