だいたい、実際の殺人事件の犯人を当てるなどということは、決して文学者のやるべきことではない。むろん、人間には趣味というものがあるから、犯人はあれだ、いや、これだと世間話に興じるのは当り前だが、文学者がその表芸として犯人を当てるなどということは、笑止千万、バカな話であろう。
 第一、私に犯人が、当るような事件は万に一ツぐらいのもので、今回がつまり万に一ツの場合であったのである。
 だいたい普通の犯罪は流しの犯罪で、犯人は日本人八千何百万人の中の一人というバクゼンたるものである。探偵小説のように、登場人物二三十人の中に必ず犯人がいるという重宝なものではないし、おまけに、殺人の現場だって当局にだけしか分っておらず、新聞社すら、臆測によっているにすぎない程度である。そういうバクゼンたる材料をモトにして、素人タンテイが犯人を当てるなどということはありうべからざることに類する。
 今回は珍しく犯人が犯人でない顔をして手記などを書いたから、私は気がつくことができたのであるが、しかし、別に私だけのことではなかろう。
 だいたい、専門家というものは、みんなそれぞれ大したものと心得てマチガイはないものだ。タンテイはタンテイ。素人タンテイとちがって本物のタンテイは素人のはかりがたい経験があるものである。恐らく刑事の多くは山口を疑っていたに相違ない。しかし冷静に兇行後の後始末を完了した山口に恐らく物的証拠はないだろうから、あの場合、女の行方を追求するのが当然であろう。女さえ捕えれば、自然に男を知ることができるからである。衆議院で山口を追求しなかった警察庁を詰問しているのは筋ちがいで、この場合、全力をあげて太田成子を追求するのが当然の本筋だったのである。モチはモチ屋。本職にまかしておけばたいがいマチガイないものである。だいたい、素人タンテイ式に、疑わしい奴を片ッぱしからショッぴくようなやり方は、最も好ましくない。どんなに長時間要してもかまわないから、礼儀正しく、つまり理づめに犯人をあげてもらいたいものである。

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 ウソ発見器というものは、たぶん利用価値は殆どゼロであろう。脈搏だか心臓だか知らないが、何か電流で通じて鼓動かなんかの変化によってウソを見破ろうというものらしいな。聯想の反応実験などとまア似たようなものだ。その人間の個性を究めていないと、とんだ狂いを生じるし
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