ノアハレなどといふ神秘の扉の奥に隠れて曰く言ひ難きものとなる。ポンと両手を打ち鳴らして、右が鳴つたか左が鳴つたかなどと云つて、人生の大真理がそんな所に転がつてゐると思ひ、大将軍大政治家大富豪ともならん者はさういふ悟りをひらかなければならないなどと、かういふフザけたことが日本文化の第一線に堂々通用してゐるのである。西洋流の学問をして実証精神の型が分るとかういふ一見フザけたことはすぐ気がつくが、つけ焼刃で、根柢的に日本の幽霊を退治したわけではなく、むしろ年と共に反動的な大幽霊と自ら化して、サビだの幽玄だの益々執念を深めてしまふ。学問の型を形の如くに勉強するが、自分自身といふものに就て真実突きとめて生きなければならないといふ唯一のものが欠けてゐるのだ。
毎々平野謙を引合ひにして恐縮だが、先頃彼の労作二百余枚の「島崎藤村の『新生』に就て」を読んだからで、他の批評家先生は駄文ばかりで、いかさま私が馬鹿げたヒマ人でも駄文を相手にするわけには行かない。
「新生」の中で主人公が自分の手をためつすかしつ眺めて、この手だな、とか思ひ入れよろしくわが身の罪の深さを思ふところが人生の深処にふれてゐるとか、鬼
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