気せまるものがあるとか、平野君、フザけたまふな。人生の深処がそんなアンドンの灯の翳みたいなボヤけたところにころがつてゐて、たまるものか。そんなところは藤村の人を甘く見たゴマ化し技法で、一番よくないところだ。むしろ最も軽蔑すべきところである。こんな風に書けば人が感心してくれると思つて書いたに相違ないところで、第一、平野君、自分の手をつく/″\眺めてわが身の罪の深さを考へる、具体的事実として、それが一体、何物です。
 自分の罪を考へる、それが文学の中で本当の意味を持つのは、具体的な行為として倫理的に発展して表はれるところにあるので、手をひつくり返して眺めて鬼気迫るなどとは、ボーンといふ千万無量の鐘の思ひと同じこと、海苔をひつくり返して焼いて、味がどうだといふやうな日本の幽霊の一匹にすぎないのである。
 島崎藤村は誠実な作家だといふけれども、実際は大いに不誠実な作家で、それは藤村自身と彼の文章(小説)との距離といふものを見れば分る。藤村と小説とは距《へだた》りがあつて、彼の分りにくい文章といふものはこの距離をごまかすための小手先の悪戦苦闘で魂の悪戦苦闘といふものではない。
 これと全く同じ意
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