健康だし、短命だ。一種の犠牲者だね。しかし一国の文化が興るのにはどうしてもこういう犠牲者が必要なんだ。
ボクの小説も、いわばスピード小説というやつなんで、百米の選手みたいにふっとばし、まあ、後は野となれ山となれだよ。だが僕は作品を書く上で、本競馬に出たときと草競馬のそれとは、はっきり区別をつけている。この間『新潮』に連載した「スキヤキから一つの歴史がはじまる」、あのあとを『群像』でつづける予定だが、あれは非常に抱負を持って書いている。
小説談議
日本人にはスポーツをやる気持で小説を書く気持が皆なくってね。ドストエフスキーや、バルザックはスポーツ的だよ、遊びだよ、だから俗なもんだ。どうして日本人はそういうことに気づかないんだろう。
ボクの書くものは健康だよ。「風博士」だってそうだったし、「肉体文学」と言う人もあるが、ボクのものは健康だと思う。
こんどの「スキヤキから一つの歴史がはじまる」は今後は全然ちがったものになり、あの連中は全部大臣とか代議士なんかになって、戦争に敗けてしまって終るんだ。政治小説みたいになる。但し敗ける時は総理は東条なんていないんで、二・二六事件もない、全然モデルもなく全くのフィクション、たゞ事実なのは日本が敗けたということだけだ。
丹羽文雄の『現代史』の失敗は、あゝいったきまった人物を書いたため、モデルに圧倒されている。モデルに縛られて自由がきかなくなったからだ。今度の小説はそこんところを考えた。この次の号あたりでボクの意図がわかってくるだろう。とにかく非常に抱負を持って書いている、小説のスタイルというものをすっかり変えてやろうと思うんだ。
石川淳さんのものは大がい読んでいるが、あの人はボクに似たところがあるよ。淋しい英雄主義だ。ボクはまた獅子文六が好きだ。淋しい思想家で、書くものにコモンセンスが行きわたっている、インテリの見本みたいな人だ。事実学問もあるしね。ボクと石川さんとどちらかといえば石川さんに似ている、ボクは偏狭だし、獅子さんは寛大だね。
芥川賞の委員になったんでいろいろ若い人の作品をたくさん読んだが、やはり由起しげ子なんかいゝね。賞を貰ったやつより、「脱走」のほうがいゝ。ちょっと底光りのするものがある。真鍋呉夫も買うが、素質はいゝんだがまだ作品がついてこない。書き流している。処女作時代からあれじゃだめだよ。
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