な現実感覚なのである。
 私は自分の子供でも、やっぱり、ジロリとみる。そして、それが、私の心の全部であるということが、ハッキリとわかった。むろん女房に対してもジロリであり、金龍に対しては、これは昔からジロリ対ジロリによって終始している関係であった。すべてがジロリであった。そのほかには、何もない。そういうことがハッキリしてきた。この発見は、せつない発見であった。発見というものではない、それが現実の全部であるという切実な知覚であった。
 日本は負けた。サンタンたる負け景色であるが、私の方は、それどころじゃない。もっとサンタンたるもので、まるでもう、心には一枚のフトンはおろか、ムシロもなく、吹きさらしだ。
 私はインチキ新聞の社長であった。インチキといっても恐カツなどやるわけじゃない。その方面では至って平和主義者であるが、つまりたゞ、配給の紙の半分以上は闇に流すという流儀なのである。同時に私はインチキ雑誌をやっていた。このインチキはエロ方面で、雑誌の五分の四頁ぐらいは色々の名前で私が一人で書きまくる流儀であった。
 私は遊ぶ金が必要なのだ。だから必死に稼ぐ必要があるのである。要するに、私は、それだけなのだ。
 私は三人の女を追いまわしていた。いずれもジロリの女であった。
 一人は四十一の未亡人で、亡夫の院長にひきつゞいて病院を経営していた。亡夫が私の従兄で、その関係で、病気のたびにこの病院のヤッカイになり、家族はもとより、金龍も入院したことがあった。あげくに院長と関係ができて、このときは辛い思いをしたものである。このときばかりは、特別、嫉妬に苦しんだ。病気のたびに世話をかけるばかりでなく、金銭のことでもかなり迷惑をかけており、ヒケメを覚えて卑屈になっているときは、口惜しさがひどいのだろう。嫉妬といっても、立場は奴隷にすぎないのだから、ゴマメの歯ぎしりという奴だ。
 ウップンを金龍にもらすわけに行かないから、このとき私はひどいヘマをやった。院長のところへ行って、金龍は私のものだというようなことを、それとなく匂わしたのだ。
 院長は豪酒と漁色で音にきこえた人物だが、金と地位があり、遊びは自在で、妾をたくわえるというような一人の女に長つゞきしない性質であった。金龍は奥さん同様のジロリ型で、だいたいこういう型と結びつき易い男であるから、要するに男としても、私にとっては苦手の型であったのである。つまり、冷酷で、残酷であった。
 この結果は、私が金龍の出入り差しとめを食うという哀れな自爆に至ったばかり、私はもはや嫉妬どころの段ではなかった。
 私は死にますと言った。そのとき金龍はキリキリと眉をつりあげて、
「死になさい。私の目の前で、死んでみせなさい」
 私は意地にも死んで見せますと言いたかったが、言えなかった。私はゾッとした。ノドを突こうと、毒薬を飲もうと、私がのたうって息絶えるまで、眉ひとつ動かしもせず、ジッと見つめているのだ。見終ると、フンとも言わず立去って、お座敷で世間話でもしているだけだ。私は、すくんだ。
 私は魂がぬけてしまった。ふらふら立上って、二階へ登って、若い妓の着物のブラ下っているのを、一時間ほども、眺めていたのである。そのうちに、もはや一つの解決しか有り得ないと自分の心が分ったので、私は降りてきて、両手をついて、あやまった。
「心を入れ換えます。いゝえ、心を入れ換えました。今後はたゞもう、誠心誠意、犬馬の労をつくして、君の馬前に討死します。毛頭、異心をいだきません」
 君前に討死します、と言ったので、一緒にいた若い妓が腹をかゝえて笑いころげてしまった。そして、さすがの金龍もクスンと苦笑いして、私は虎口を脱することができたのである。
 金龍は意地の悪い女であった。そんな風に腹をたてると、たゞはキゲンを直してくれず、もう冬近いころだというのに風呂桶にマンマンと冷水をみたして、私にはいれ、というのであった。そして私がふるえながら蒼ざめて水にはいるのを、ジット見つめていて、面白くもなさそうに振向いて立去るのだ。
 私は要領を心得ていた。そういう時には、できるだけバカバカしくふるまって、笑わせるに限る。だから、冷水風呂にはいれ、という。ハイ、かしこまりました、どうせハダカのついでだから、今日は縁の下の大掃除を致しましょうと云って、いきなり、下帯ひとつに箒《ほうき》をかついで縁の下へもぐりこみ、右に左に隈なく掃き清めてスヽだらけ黒坊主、それより冷水風呂へはいる。重労働の結果はカラダもあたゝまって冷水への抵抗もつくというもので、縁の下の大掃除には、又、それのみにマゴコロこめて虚心の活躍、これが大切なところである。
 終戦の年の暮であったが、院長が死んだその葬式に、私は喪服の未亡人、衣子を見つめつゝ、神に誓い、又、院長の霊に誓い、必ずあなたを私の恋人の一人の席に坐らしめてみせます、と堅く心を定めた。そして、あなたの未亡人は必ず私の恋人の一人としますから、と、心に約束の言葉を述べつゝ、霊前に焼香し、黙祷したのであった。
 衣子はもはや四十一、十九の女子大学生があり、十四の中学生があったが、その冴えた容色はなお人目をひき、目も切れて薄く、鼻もツンと薄く、唇も薄く、すべてが薄く、そしてそれは金龍と同じ性質のもので、そしてやっぱり私をジロリと見るのであった。
 私は然し、こういう女の生態が分らない。金龍は浮気、浮気というよりも妖婦であったが、芸者ならざる衣子の場合はどうだろう? 私には予測がつかない。一般の型によっても、割りきれない。そのことが、又、さらに私の冒険心と闘志をふるいたたせた。
 私は先ず年来の恩義を霊前に謝する意味に於て、多額の新円をたずさえて、幾たびか足を運び、そうすることによって、女の客間の交通手形のようなものを彼女の心に印刷させることができた。
 私はそのために貧乏であった。必死に稼がなければならないのである。
 そして私は、衣子を観劇などに誘っても応じてくれる見込がついたときに、彼女の趣味を発見することに注意した。彼女が好きであるものに誘うというのは芸がない。彼女が好きな筈であるが、まだ彼女の知らないものに誘い、感謝をうけることが必要なのだ。衣子は感謝を知らない女であっても、要するに彼女の心をある点まで私の方に傾斜せしめることが必要で、そのためには、微細に注意した筋書きを組み立てゝ行くことが必要なのである。彼女は元来が私のようなガラ八の性格に反撥軽蔑する別人種であるのだから。
 ところが私は念には念をいれたあげくに、哀れビンゼンたる手法を用いてしまったのである。由来、恋のかなわぬ恋人というものは、とかく恋仇に恋の手引きをするような奇妙なめぐり合せになるものだが、そのあさましさを知りながら、私もそのハメに自分を陥し入れてしまったのである。
 衣子には恋人があった。亡夫の院長は盲腸だの癌だの内臓外科の手術に名声ある人であったが、その歿後は、亡夫の級友で、大学教授の大浦市郎という博士が週に二回出張して金看板になっている。この人が衣子の恋人であった。
 大浦博士は色好みの人であるから、衣子という一人の女に特別打ちこむようなところはなかったのだが、その財産には目をつけた。そういう人だから、私が砂糖だバタアだ醤油だ米だとチョイ/\差上げるのを狎れてきて、まるで当り前のように、今度は何をとサイソクする。私を三下奴《さんしたやっこ》のように心得ている。先方がこうでるようになればシメタもので、私の方はサギにかけよう、今に大きくモトデを取り返してやろう、そんな金モウケはミジンも考えていないのだから、相手が私をなめてくれると、友達になったシルシのように考えるだけの話なのである。
 なめられる、ということは、つまり相手が私に近づいてくれたことなのである。さしずめ、私は、もう背中を流してやることができるわけで、女の場合なら、その肌に近づいたというシルシなのだ。
 だから、私は、わざと、こうやって犬馬の労をつくすからは、私だけ、ということはないでしょう、私にも、なにかモウケさせて下さいな、と云って、大浦博士の文章をいたゞいて、新聞や雑誌にのせる。精神病だの婦人科だの法医学などゝ違って、内臓外科、こんなものゝ文章は当節は一向に読み物にはならず、大博士の文章でも、もらって有難メイワクであるが、そんなソブリはいさゝかも見せず、たゞもう嬉しがり、恩に感じて見せるのである。
 その返礼は何か、というと、つまり、アイツは気立のよい奴だ、腹に一物あるようなところもあり、そゝっかしい愚か者だが、案外心のよい奴だ、そう言ってくれる。そのうちには、案外あれで頭もよい、となり、アイツは却々《なかなか》シッカリした奴だ、手腕もある、だんだん、そういう風になる。私のモウケは要するに、それだけでよかった。こうして、衣子の周囲に、おのずから私の方へ向いてくる傾斜をつくることが大切なのである。
 ある日のこと、大浦博士の自宅へよばれたので、出向いてみると、私に一肌ぬいで貰いたいことがあるという。
 大浦氏は、富田病院の財産に目をつけたが、女房子供もある身のことで、衣子と結婚するというわけにも行かぬ。衣子が又、したゝかなところがあって、金銭上のことになると、色恋とハッキリ区切って、金庫の上にアグラをかいているような手堅いところがあった。
 大浦博士の末弟は大浦種則という私大出の婦人科の医学士で二十八、まだ大学の研究室にいる、これを衣子の長女の美代子という十九になる女子大生とめあわせることを考えた。種則を富田病院の入聟《いりむこ》にする。衣子の長男はまだ十四で、独立するまでには時間があるから、富田家の財産を折半して、病院の方は美代子にやらせる。長男は何職業を選ぶのも本人次第、気まゝに勉学させて、成人後、財産を分けて独立させる、という大浦博士の思惑なのである。
 この話は、衣子がなかなか乗ってくれない。そこで私に一肌ぬいで、うまくまとめてくれないかという相談なのだ。
「衣子夫人の信望を一身に担っている博士に説得できないことが、私なんかに出来ませんや。私なんか親類縁者というわけで出入りはしているものゝ、親身にたよられているわけじゃアなし、第一、それだけすゝんでいる話を、今まで相談もうけたことがないのだから」
「そこが君、私が信望を担っているといったところで、私が当事者だから、私には説得力の最後の鍵が欠けているのさ。あれで、君、君の世間智というものは、衣子さんに案外強く信頼されているんだぜ。女というものは妙なところに不正直で、これは自信がないせいだと思うんだがネ、ひどく親しく接触しているくせに、その人を疑ったり蔑んでいたり、疎々《うとうと》しくふるまう相手を、内々高く買っていたり、君の場合などがそうで、案外高く信頼されているのだよ」
 と大浦博士は言った。
 博士は人に接触する職業の人であるから、人間通で、人の接触つながりに就ての呼吸を心得ている。それで私の場合も、衣子と私とのツナガリにわだかまる急所のところを、こうズバリと言ってのけて、つまりは私の説得に成功した。衣子が内々私を高く評価しているか、どうか、むしろ博士はそうでないことを知っているから、アベコベのことを言った。私は博士の肚をそう読んだが、往々にして、こういう策のある言葉が実は的を射ていることがあるもので、人間通などゝ云ってもタカの知れたもの、人間の心理の動きは公式の及ばぬ世界、つまり個性とその独自な環境によるせいだ。
 博士のオダテは見えすいていたが、それが案外的を射てもいるように思うことができたから、私は内々よろこんだ。要するに、私はウマウマとオダテにのったわけで、私はつまり、こういう甘い人間である。こせっからくカングッたあげく、要するに、向うの手に乗っているわけなのだ。
 けれども私はよろこんで、じゃア、まア、ひとつ、ともかく私から話してみましょうなどゝ、つりこまれたフリをした。
 そこで私は衣子に、
「まア、なんだなア、私はどうも、大浦先生のお頼みを受けてこの縁談のことを頼まれたわけだけど、大浦先生には大恩
前へ 次へ
全11ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング