ジロリの女
――ゴロー三船とマゴコロの手記――
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)交驩《こうかん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大学生|幇間《ほうかん》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ベタ/\
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私は人の顔をジロリと見る悪い癖があるのだそうだ。三十三の年にさる女の人にそう言われるまで自分では気づかなかったが、人の心をいっぺんに見抜くような薄気味わるさで、下品だという話だ。それ以来、変に意識するようになり、あゝ、又やったか、そう思う。なるほど、我ながら、変に卑しい感じがする。魂の貧困というようなものだ。男にはメッタにやらぬ。自分では媚びるような気持のときに、逆に変にフテブテしくジロリとやるようなアンバイであるらしい。然し、どんな時にジロリとやるのだか、自分にも明確には分らず、その寸前に、あゝ今、やるな、と思うと果してジロリとやるグアイで、意識すると、後味の悪いものだ。
けれども、三十三の年までは、自分のことには気がつかず、女の人が私に対して、そうするのだけが、ひどく切なく胸にこたえて仕方がなかった。すべての女が私にそうするわけではない。あるきまった型の女の人だけがそうで、キリキリ意地っぱりの敏腕家という姐さん芸者や女将などがそうなのである。
そういうタイプの女は、私と性格的に反撥し、一目で敵意をもったり、狎れがたい壁をきずいたりするふうで、先ずどこまでも平行線、恋など思いもよらぬ他人同志で終るべき宿命のものゝようだ。
だから、私が口説いてモノになったという女は、もっとベタ/\とセンチな純情派や肉感的な荒々しい男性型、平凡な良妻型などいう月並なところで、知的な自信や骨っぽさのある女は例のジロリで、私と交る線がない。ところが、ジロリ型の婦人に限って、美人が多い。
然し、交る線がないということは、おのずから恋愛感情に自制や限定をつくるものか、コイツ美人だな、と思っても、夢中になるような心にならない。つまり恋愛というものは、そして恋愛感情というものは、無軌道に自然奔放なものではなしに、おのずから制限のあるもので、たとえば異国の映画女優に、どんなに夢中になったところで、悶々の情、夜もねむれずというような恋愛感情は起る筈のないものなのである。
だから私は若いときから、しばしば女にベタ惚れという惚れ方をして、だらしなく悶々と思いつめたり、夢心持によろこび、よろこびのあまりに苦悶、苦痛、ねむれず、まことにとり乱してあられもない有様であったが、それはみんな手ぢかな女、中には万人の認める美人もいたが、気質的に近い人、成功率の高いある型に限られていた。ジロリ型の女は、始めから他人のつもりにしている自然の構えができていたのである。
然し、ジロリ型の女でも、手をつくして口説けばモノになるということが分ったのは私が大学を卒業する二十四の年、そのときから、私の人生が変った。
そのころの東京はまだ漫才というものが一般的なものでなく、寄席にかゝることも稀れで、浅草の片隅などでごく限られた定連相手に細々と興行していただけであった。私はそこの常連で、ついには楽屋へ遊びに行って漫才師と交驩《こうかん》するような、学生時代をそんなことで空費したのであるが、あるとき漫才屋さん方に時ならぬ欠勤続出して、舞台がもてなくなる騒ぎ、そのとき、楽屋へ一人の女漫才嬢が遊びに来合せていた。彼女は亭主の漫才屋さんと喧嘩別れして、目下相棒がなくて、楽屋へ油を売りに来ていたのだ。そこで私が、
「どうだい、アヤちゃん。あなたと私の即製コンビで、お手伝いをしようじゃないか」
「あんた、できる?」
「やってみなきゃア分らないやね。然し、なんとか、なるでしょう。お客さん方も幕を睨んでいるよりはマシだろう。まさか舞台へとび上ってヒッパタキにくることもなかろうさ」
というわけで、着物を拝借して、高座へ上った。なんとか呼吸も合い、私が浪花節を唸ったり、ヒッパタかれてノビてみせたり、ハデなもので、それから十日間ほど、やった。思うに第一回目が最上の出来で、このときは気持に特別のハリがこもっていたせいか、却ってスラスラ、うまく呼吸もあい、ハデな珍演も湧出というていであったが、芸ごとゝいうものは本腰にかゝると全然ウダツがあがらぬもので、三日四日とだんだん自分のヘタさが我が目に立つばかり、自縄自縛というものだ。
ところでその何日目かのことであるが、私が大学の三年間、親の脛《すね》をかじりながら、安値に遊ばせて貰ったさる土地の、私のナジミの妓を抱えているのが土地の名題の姐さんで、金龍という、この姐さんがジロリの女であった。
私のナジミの妓は照葉という平凡な、いつも金龍に叱りつけられているような女だから、私が金龍姐さんのジロリを反撥し合って両々ソッポの向けっくらでも一向に気にもかけない。姐さんは我利々々の凄腕《すごうで》の冷めたくって薄情者の男だましの天才なのよと色々と内幕をあばいてきかせる。それが一々却ってその悪党ぶりに魅力をひかれるていであるが、まだそのころは、私はこれは他人だという、てんからきめこんだ構えがあるから、その魅力も、たゞきゝおく以上に身に泌《し》みた情慾をかきたてるものとはならなかった。
私は漫才のお手伝いをしたとき、これは一度、ぜひともナジミの彼女方に披露しておく必要があると思って、招待を発した。そのとき、どういう風の吹き廻しか、若い妓たちと一緒に金龍姐さんが現れたのである。
あのとき私が筆をふるって自ら出演の紙札を書いた即席の芸名が、漫才、ゴロー三船、つまりただ私の本名を二つに分けたにすぎないのである。
「あなたは本名を二つにわるぐらいの人なのね」
と金龍姐さんは例のジロリと一ベツして、こう言ってソッポをむいた。なんの意味だか分りやしないが、何か気のきいたヤッツケ文句のつもりであろう。意あまって言葉足らず、姐さんはチョットそういう御仁でもあった。
それからの一夜、私が照葉をよぶと、同じ待合でよそのお座敷をつとめていた照葉がやってきて、
「ゴロー師匠にお座敷よ」
という。
金龍姐さんが客人に披露して、こんどこの土地にゴロー三船という大学生|幇間《ほうかん》が現れたのよ、趣向が変ってバカらしいから呼んでやりなさい、と言ったという。
私も癪にさわったが、よろし、その儀ならば、目に物を見せてくれよう、というわけで、幇間になりすまして、即席、見事に相つとめて見せた。
すると金龍姐さんは案外にも、宴の終りに、この人はホンモノの幇間じゃなくて、大学生であり、こんど卒業だから、あなた方、カバン持ちにやとって上げなさい。あなた方も遊びが本職の仕事のような御方ぞろいなのだから、こんなカバン持ちも趣向でしょうよ、と云ってくれて、その場で就職がきまった。私はモーロー会社々長の秘書にやとわれたのである。おかげで、官費で遊べるようになったが、その代り照葉は社長の悪友にとりあげられて、甚だ貧しいミズテン芸者をあてがわれることになったのである。
モーロー会社はつぶれ、社長は雲隠れ、悪友どもゝ四散して、この土地に現れなくなっても、私だけは大学時代からの精勤であった。そして私は自然のうちに金龍姐さんの幕僚になっていたのである。
私は金龍にコキ使われ、嘘をつかれ、だまされ、辱しめられ、そして手切れだの間男の尻ぬぐいだのに奔走した。
私は然し平然として、腹をたてず、お世辞をつかい、惚れているが、思いがとげられないような切ない素振りをみせた。そうすることが、姐さんの気に入ることが、自然に分ったからである。
それは私の本心でもあった。金龍姐さんの凄腕や薄情ぶりには私もホトホト敬服していた。男なんか屁とも思っていないのだ。そして男をだますことがたのしいのである。たのしいのだか、どうだか、そこまでは知らないけれども、生れつきがそういう天性の根性で、六代目が素敵だとかハリマ屋がどうとか、そんな芸者なみの量見は全然ない。尤も、なんでも知っているし、見てもいる。それも男をだます技術の一つであるからで、三味線や唄も達者なのだが、それがダマシの技術上必要な時でなければ用いたためしはない。万事につけてその筆法で、その意味の専門技術士であった。
私は酒間に、わざと、何年間と思いやつれている人がいるんだけど、一晩ぐらい、なんとか、ならないものかなア、などゝ三日に一度ぐらいは特別の大声で言うのであった。
又、金龍が待合などで風呂へはいるとき、せめて三助でいゝや、玉の肌にふれるぐらいはしてみてえなア、と言ってみたり、実際にガラリ戸をあけて、いかゞ、お流し致しましょうか、と言ったりする。すると例のジロリと一べつ、私は然しイサイかまわず、後へまわって流してあげる。できるだけテイネイに、やわらかく、心をこめて流してあげる。それは尊敬というものだ。この尊敬のまごゝろほど御婦人の心に通じ易いものはない。
だから、そのうちには、昼さがりチャブダイにもたれて雑誌かなにか読んでいるうちに、ふと私の方へ白い脚を投げだして、
「蒸しタオルで足をふいてちょうだい」
イサイ承知と、さてこそ私はマゴコロこめて、毛孔ひとつおろそかにせず、なめらかに、やわらかく、拭いては程よく蒸し直し、それに心根さゝげる。まさしく魂こめるのである。
夏は冷めたいタオルで、膝小僧のあたりまで、ふく。私は然し劣情をころし、そういう時には、決して、狎れず、ただ忠僕の誠意のみをヒレキする。
然しそれは恋愛の技法上から体得したことではなくて、処世上、おのずから編みだしたことで、なぜなら私は金龍によって、金銭上の恩恵を蒙っており、金持ちの客に渡りをつけて、それからそれへ儲けの口を与えてくれるからであった。だから私は金銭上の奴隷として女王に仕えつゝあるうちに、おのずから恋愛の技法を発見するに至ったのであった。
私は一夜、お客をふって中ッ腹でもどってきた金龍の情けをうけて、夢の一夜を経験した。それは金龍に奉仕して四年目、私が二十八、金龍は二十七であった。
そして、奴隷、間夫《まぶ》という関係は、私が三十七の年まで、戦争で金龍が旦那と疎開するまで、つゞき、そして金龍は旦那と結婚して田舎へ落ちついて、もとより私のことなどは、忘れてしまった。
★
私がこの手記を書くのは、金龍の思い出のためではないのだ。私ももう四十を越した。私の一生は金龍によって変えられ宿命づけられたようなものであった。
私は二十六の年に平凡な結婚をして、今では三人の子供もある。私は然し、恋愛せずには生きられない。けれども、私にとって、気質的に近い女を手易く口説いてモノにするのは恋ではなく、私の情熱はそのような安直な肉体によって充たされることが、できなくなっていた。私は例のジロリ型の反撥に敵意をいだく女を、食い下り追いつめて我がものとすることだけに情熱を托しうるのであった。それは金龍が私の一生に残してくれたミヤゲであった。
金龍と私との十年の歳月は多事多難であったが、又、夢のようにも、すぎ去った。私は多情多恨であり、思い屈し、千々に乱れて、その十年をすごしはしたが、なにか切実ではなかったような思いがする。
四十にして惑わず、という、孔子は不惑をどの意味で用いたのか知らないけれども、私にとっても、四十はまさしく不惑で、私は不惑の幽霊になやまされているのである。
私の不惑という奴は、人生の物質的発見というような、ちょッと巧《うま》く言い現わしができないけれども、感傷とか甘さというものゝ喪失から来たこの現実の重量感の負担であった。
私自身が昔から人をジロリと見る癖があったというが、そういうジロリの意識の苦しさが、つまり今では私のノベツの時間のような、現実というものにたゞ物的に即している苦しさ冷めたさで、心というものが、物でしかないようで、それが手ざわりであるような自覚についての切なさであった。
それはまさしく不惑なのである。惑うべからざる切実
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