胸のポケットへ万年筆を入れようとして、片手に買い物の包みを持ち、片手でゴソゴソ苦労している、そのジャンパーのポケットから大きな紙入れが半分ものぞけている、とッさに私はそれをスリ抜いて歩いていた。一万円ちょッと、はいっていた。
 私はヤス子に関する限り、大浦博士に勝ち誇る気持には、どうしても、なることができない。私の心は、いつも負け、嫉妬しているだけであった。
 私はいったい何者だろうと考える。私は遊びふけって尽きないだけのお金をかせいでいる。大浦博士はヤス子とお茶をのむ金にも窮しがちであるかも知れない。私は、大浦博士の知らないヤス子の肉体を知っている。
 私は然しそのほかに何一つとるに足らない人間にすぎない。大浦博士は、名医であり、教授であり、学者である。立派な風采をもっている。ひろい趣味をもっている。洗練されたマナーをもっている。
 どうして、こうも嫉妬深い私であろうか。私はヤキモチはキライなのだ。然し私はいつも嫉妬に狂っている。
 私はヤス子を誘う。今夜はダメですと云う。大浦先生と約束があると云う。又、ほかの誰かと約束があると云う。今日は家に用があると云う。一しょに夕食をとっても、
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