いとしくさえ思われる。否、私よりもいとしいとハッキリ言いきれるのである。
 わけてもヤス子はいとしかった。上高地で見た大正池と穂高の澄んだ景色のように、人の心も、その恋も澄む筈だと云った。あのリンリンたる言葉を、美しい音楽のようにわが耳に思いだして、私の心はいとしさに澄み、そしてひろびろとあたゝまる。
 私のようなバカ者の中から何らかの高貴を見出し、高まろうとする。それはヤス子の必死の希いだ。さすれば下僕のマゴコロたるもの、何ものか自ら高貴でありたいと切に祈るのも仕方がない。さりとて、こればっかりはムリである。私は所詮高貴じゃない。
 梨の花がさいていた。それは私にとっては別に美なるものには見えなかった。こんなものが、あの食べられる梨になるのかなアと思った。
 私はいつもオシャベリだ。人に対して何か喋らずにいることが悪事のようにすら思われる幇間的な性根が具わっているのだが、アイビキのはての帰りの散歩の道などでは、どういう言葉もイヤになって、怒ったように、黙りこんでしまう。私の心がむなしくないからだ。いとしくて、そして、せつないからである。
 私は、まったく、金竜のような女と一しょにいる
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