子に逢いたい決意をかためた。ヤス子の怒りと憎しみを見ることがどれほど苦しいものであっても、ヤス子を一目も見られぬ怖れの苦しさが切なくなっていたからだ。
私たちは東京へもどり、私はヤス子に電話をかけた。
私はヤス子が現れたとき、顔をあげることができなかった。
美代子がヤス子にすがって泣いている。私はそれも見なかった。私はついに、最初の視線がチラリと合って顔をそむけてのちは、どうしても顔があげられず、その方にからだを向けていることすらもできなかった。
私は顔を伏せてそむけたまゝヤス子に近づいて、胸のポケットのハンカチをとりだして突きだして、
「美代子さんと、このハンケチとを、あなたに返えすよ。おわびする。どんな憎しみも軽蔑も、容赦なく、私はみんな受けます。そして、どうか、行って下さい」
ヤス子が私に近づき、私の正面に廻った。私はそれにつれて、からだを横にずり向けた。ヤス子はそれを追い、正面へ正面へと廻ろうとしていたが、あきらめて、止った。
「美代子さんをお返しして、すぐ、また、来ます。こゝに待っていて下さい」
ヤス子と美代子は立去った。遠からぬ時間のうちにヤス子は一人戻ってきた。
ヤス子は又私の正面へ廻った。横へずれる私の肩を両手でシッカと抑えとめて、
「三船さん。顔をあげて、私を見て下さい。私は怒っていません。憎んでいません。蔑んでいません。ほら、私の目を見て下さい」
私はやっぱり顔をあげられなかった。
ヤス子の手が肩を放れて、私の額にやわらかくふれた。その手が、私の顔をあげさせた。
ヤス子が私をのぞきこんで、エンゼンとほゝえんでいるではないか。然し私がどうしてそれを喜ぶことができようか。何事を私が言い得ようか。私はすくみ、放心した。悲しさすらもなかった。苦痛の果のむなしさが全てゞあった。
「三船さん。私は今こそあなたを愛すことができると信じられるようになったのです。以前はそうではなかったのです。軽蔑も、どこかに感じておりました。汚なさも、どこかに感じておりました。今はそうではありません。尊敬の思いすらもいだいております。私はあなたから、人の子の罪の切なさを知りました。罪のもつ清純なものを教わりました。あなたはたゞ弱い方です。然し、あなたは清らかな方です。いつか、あなたに申したでしょう。上高地で見た大正池と穂高の澄んだ姿のように、人の姿も自然のよう
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