元々芸、芸術といふものは日常茶飯の平常心ではできないもので、私は先日将棋の名人戦、その最終戦を見物したが、そのとき塚田八段が第一手に十四分考へた。それで観戦の土居八段に、第一手ぐらゐ前夜案をねつてくるわけに行かないのかと尋ねたところが、前夜考へてきても盤面へ対坐すると又気持が変る、封じ手などゝいふものは大概指手が限られてゐて想像がつくから、この手ならかう、あの手ならかう、とちやんと案をねつてきても、盤面へ向つてみると又考へが変つて別の手をさす、さういふものだと言ふ。
これは僕らの仕事でも同じことだ。かういふ筋を書かう、この人物にかういふ行動をさせよう、さう考へてゐても、原稿紙に向ふと気持が変る。
気持が変るといふのは、つまり前夜考へる、前夜の考へといふのが実は我々の平常心によつて考案されてをるのだが、原稿に向ふと、平常心の低さでは我慢ができない。全的に没入する、さういふ境地が要求される、創作活動といふものはさういふもので、予定のプラン通りに行くものなら、これは創作活動ではなくて細工物の製造で、よくできた細工はつくれても芸術といふ創造は行はれない。芸術の創造は常にプランをはみだすとこ
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