ことに成功することによつて、彼は益々自作の熱愛読者となり、自作に酔つぱらひ、わが現身の卑小俗悪を軽蔑黙殺することに成功した。彼はもうイヤでも自分の作品に酔つぱらはなければ、この現身の息苦しさに堪へ生きてゐられないのだ。
同業者や批評家はいまだに孤高の文学、異色の文学、きまり文句でお座なりの五六行文芸時評の片すみへこれも稼ぎのためだからと筆まめにいゝ加減あてずつぽうに書いてくれるのが時々ゐたりするけれども、もう女房だけは騙すことができない。作品と現実との根柢的のバラバラ事件をこれは頭脳が読むのでなしに骨身に徹して、骨身によつて、判定してゐるのだ。
そこへもう女房の我慢のならないことができた。
★
彼等は疑雨荘といふちよつと小綺麗なアパートに住むことになつた。このアパートのマダムはオメカケで、お小遣ひかせぎに旦那にせがんでアパートをこしらへて貰つたのだが、内々は浮気のためで、旦那は晩酌が一升づつといふ酒豪で不能者だから、芸者育ちのマダムは小さな環境にあきたらない、まことに多淫な女で、アパートの誰彼とたくみに遊びたわむれてゐる。
旦那がきて晩酌がはじまると、今日はあの方をおよびしませうといふわけで、庄吉も招かれる。マダムは二十七八の美人で芸者あがりだから世帯じみたところがなく、濃厚な色気そのもの、豊艶で色ッぽい。三枝先生と言つてチヤホヤもてなしてくれるから庄吉は有頂天になつて、それからといふもの酔余の女人夢遊訪問はアパートのマダムの部屋となつた。酔つ払ふと大はしやぎで、ふだんは蚊のなくやうな細い声しかでないくせに、こんなチッポケな痩身のどこからでると思ふやうな破《わ》れ鐘《がね》の声で応援団のやうに熱狂乱舞して合ひの手に胴間声にメッキのやうなツヤをかぶせて御婦人を讃美礼讃したり口説いたりする。小さなアパートにこれが筒ぬけに響くから、
「アラ先生、奥様にきこえてよ」
などと言ふが、これが又わざときこえよがしの声でナガシメを送るのだから、庄吉は益々有頂天で、
「僕は女房はきれえなんだ。年ガラ年中筍の皮をむいたり玉ネギをコマ切れにして泣いたり、朝から晩までいつだつてさうなんだから毎日何百本も筍を食つてるわけぢやアないんだから、アイツは一本の筍を五時間もむく妖術使ひなんだなア。その妖術のほかに人生の心得は何一つないんだから」
これがきこえてくるからカンベンができない。日本の女房は概ね女中兼業で、兼業の方に主力が置かれてゐる状況であるが、当人が好んで兼業に精をだしてゐるわけではなくて、亭主が無力で女房と亭主友だちづきあひといふわけに行かないシクミだから涙をのんで筍の皮をむいてゐる。しかるに何ぞや。自分の無力無能をタナにあげて、女房は世帯じみて筍の妖術使ひだと言ふ。どこの宿六でも自分の無力無能のせゐで女房をヤリクリ妖術使ひにしておきながら、ヤリクリなしの遊び女にひそかにアコガレをよせてゐるいづれも不届きの曲者ぞろひで、さてこそ女房がこぞつて遊女芸者オメカケを敵性国家と見なすのは重々|左《さ》もあるべきところである。見えも聴えもしなければ我慢のしどころもあるけれども、目に見え耳に聴えては痛憤やるかたないのは御尤も、それでも胸をさすつてゐると、一緒に芝居見物に行つて酔つ払つておそろひで賑々しく帰つてきて女房の部屋へは顔もださず、マダムの部屋で馬鹿笑ひをしながら飲ませて貰つてゐる。〆切に追ひまくられ女房が鍋の音をガチャリとさせてもギラギラした目を三角にしてヂロリと睨むくせに、マダムが先生チョットと呼びにくると困りきつた顔半分相好くづしていそいそと出たまゝ夜更けまで帰らずベロ/\になつて戻つて小説は間に合はず、貧窮身にせまる。
然し宿六の心事は複雑奇怪で、彼は決して女にもてゝはゐなかつた。彼はていよくマダムにあやつられ、それといふのが、彼がその道にまつたく稚拙で単なるダダッ子にすぎないのだから旦那の信用を博してゐる、そこでマダムは彼をつれだし、ついでに男をつれだして、彼を気持よく酔はせておいて、アラ、チョット先生忘れた用があるからとか、買物をしてくるから、とか、人に会つてくるとか呼んでくるとかぬけだして、彼にはオデン屋の安酒をあてがつて二時間ほど遊んでくる。しよつちう男が変つてゐるが事情に全然変化のないのは庄吉で、ちかごろでは卑屈になつて、アラ、さう、忘れた、先生、と二人の男女が立ち上ると、皆まできかずエヘヽ行つてらつしやいなどゝ、あさましい。そのあさましさは骨身に徹して彼には分るが、浮気女の豊艶な魔力におさへられて一言二言うまいことを言はれるとグニャ/\相好をくづすだけが能だといふ、思へばかへすがへすもあさましい限りであつた。こんなことは女房に言へた義理ではないから、いかにも彼が大もてゞ、マダム意中の人の如くに威
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