三再四きりがない。もちろん成功の見込み微塵もない。
 そこまではまだ良かつたが、近所にすむ同郷のお弟子にちよつと色ッぽい妹があつて彼の世話で雑誌社の事務員になつた。それ以来酔つ払ふとこのお弟子の家をたゝいて酒を所望し、泊りこみ、その横に母なる人がねてゐても委細かまはず妹のフトンへ這ひこむ。追ひだされる、不撓不屈、つひに疲れて自然にノビてしまふまで、くりかへす。これも成功の見込みはない。
 次にはさる新進の女流作家を訪問する。この女流作家の作品をほめて書いたことからの縁で、この人は流行作家のオメカケさんだが、酔つ払ふと、こゝへ押しかける。酔つ払ふと必ず誰か女のもとへ通ふのは彼の如何ともなしがたい宿命的な夢遊歩行となりつゝあつた。
 遠征の夢遊歩行はまだよかつたが、女房の妹に女学生、まだ四年生、然し大柄で大人になりかけた体格だが、女房とは比較にならぬ美少女で色ッぽい。この女学生が泊つた晩、あいにく夏で、カヤが一つしかないからみんなで一つカヤにねたが、この晩庄吉は泥酔したのが失敗のもとで、夢遊歩行に倅《せがれ》の寝床を乗りこへ女房のバリケードをのりこへて女学生めがけて進撃に及ぶ。女房に襟くび掴んで引き戻されても不撓不屈、道風《とうふう》の蛙、三時間余、もつとも成功に至らず、夜の白む頃に及んでやうやく自然の疲労にノビて終末をつげたが、然し、まだこゝまではよろしかつた。
 浮気は本来万人のもの、酔つたからだと言つてはならぬ、浮気心のあるがままを冷然見つめる目があつてその目が作品の根柢になければならぬものを、彼はその目を持ちながら、かゝる目自体を俗なるものとする。自分と女房を主人公に夢物語をデッチあげるが、この目の裏づけがないから、夢物語に真実の生命、血も肉もない。もう女房は宿六の作品に納得されなくなつてゐる。
 浮気は万人の心であり、浮気心はあつても、そして酔つて這ひこんでも、彼はたしかにその魂の高雅な気品尋常ならぬ人であつた。あるがまゝの本性は見ぬふりして、ことさらに綺麗ごとで夢物語を仕上げ、実人生を卑俗なるものとして作中人物にわがまことの人格を創りだすつもりなのだが、わが本性の着実な裏づけなしに血肉こもる人格の創作しうる由もない。彼は高風気品ある人だから、妹の寝床を襲撃に及んでも女房は宿六の犯しがたい品位になほ評価を失つたわけではないのに、作中人物に納得させる現実の根柢裏づけが欠け、一人よがりいゝ気にオモチャ箱をひつくりかへしオモチャの人格をのさばらせるから、むしろそこからヒビがはいつた。宿六の愛読者ではなくなつたから、作中人物を疑り蔑むことによつて、現実の宿六をも蔑み、その犯しがたい品位まで嘘つパチいゝ加減のまやかし物だといふやうに見る目が曲つてしまつたのである。
 庄吉はもう四十になつた。彼は女房を信じ愛しまかせきつてゐた。気の毒な彼はその作品の根柢が現実の根から遊離し冷厳なる鬼の目を封じ去り締めだすことに馴れるにつれて、彼は然しあべこべに彼の現実の表面だけを彼の夢幻の作品に似せて行き、夢と現実が分かち難くなつてきた。
 彼は雑誌社で稿料を貰ふ。借金とりにせめられ、子供の月謝や弁当代に事欠き、女房は彼の帰宅を待ちわびてゐる。その借金や子供の学費が気にかゝることに於て彼は決して女房以下ではないのだけれども、友だちに会ふ、懐中の原稿料は無事女房に渡してやりたいけれども、先刻も話した通りこのお金には脚があつて慌てゝ走つて行きたがつてゐるのだから、せつない。まア一杯だけと思ふ、よく酔へる、二杯、三杯、十杯、さア、景気よく騒がう、あれも呼べ、これも呼べ、八方に電話をかける、後輩どもをよびあつめ、大威張り、陸上競技の投げ槍などを買ひもとめてバルヂンといふ彼の作中人物の愛吟を高らかに誦しつゝアテナイの市民、アテナイの選手を気どつて我が家に帰る。もはや一文の金も懐中にはない。女房はくるりとふりむき別室へ駈け去つて泣く、泣きながら翌朝のオミオツケのタマネギをきり又なく。宿六がこれ女房よと呼びかけても返事をしない。
 この悲痛をもとより彼は見逃がしてゐない。彼はむしろ女房よりも貧苦がせつなく、借金が悲しく、子供の学費が心にかゝつてゐるのだ。けれども彼の作品が根柢的にその現実と絶縁に成功すると同様に、彼の現実に於ても、その絶縁に成功しなければ彼はもう身の置き場もない。彼は借金とりをラ・マンチャの紳士の水車の化け物に見たてゝ戦ひ、女房の妹を口説いてもトボソのダルシニヤ姫になぞらへる。孤高の文学だの、遊吟詩人の異色文学だの、彼の作品の広告のきまり文句を全然信じてゐないくせに、俺はさういふものだと胸をそらして思ひこむことに成功する。
 根柢に現実の根とまつたく遊離した作品世界に遊びながら、その偽懣に気づかぬどころか、現実のうはべだけを作中世界に似せ合はせる
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