張りかへつてゐるけれども、女房よゆるせ、そぞろ悲しく、こゝが芸術の有難さだと、わが本性に根の一つもない夢幻の物語に浮身をやつし、作中人物になりすまし、朗吟の果には涙をながして自分一人感動してゐる。女房にこれぐらゐ馬鹿々々しく見えるものはない。彼女は亭主の小説などもはや三文の値もつけられない。ロクデナシメ、覚えてゐやがれ、と失踪してしまつた。
然し彼が柄にもなくマダムに熱をあげるのは恋路のせゐ浮気のせゐでなく、むしろ文学に行きづまつたためだ。なぜと云つて、彼は全然女にもてゝをらず、女の浮気のダシに使はれ、なめられ、ふみつけられ、そのあさましさを知りぬいて、見えすいた甘い言葉に相好くづして悦に入る、バカげたこと、悲しいばかり面白をかしくもないのだけれども、芸術に自信を失つては、芸術家はもう人生まつくらだ。面白をかしくもないこと、やりたくもないことに結構フラフラ打ちこむとはこれ即ちデカダンで、自信喪失といふものゝ宿命的な成行きなのである。
数日失踪したまゝ女房が帰らない。気もテンドウせんばかり苦痛だけれども、マダムが冷然と、アラ奥さん浮気? お見それしたわね、先生もだらしがない方ね、あんな奥さんにミレンがあるのかしら、と毒の針をふくんだやうな言葉を浴せる、底意は侮蔑しきつてゐるのが分つてをり目の色にも半分嘲笑がにじみでゝゐるのだけれども、先生も浮気なさらないの、などゝ冷やかされると、彼はもうヤケになつて、
「奥さん、泊りに行かうよ。ね、いゝだらう、行かうよ」
マダムは苦笑して
「先生、泊りに行くお金あるの?」
グサリと斬る。
庄吉は一刀両断、水もたまらず、首はとび甚だ意地の悪いもので地べたへ落ちてもぐりこんでしまへばいゝのにフワリフワリと宙に浮いて壁につき当り唐紙《からかみ》にはぢかれ柱の角で鼻をこすつてシカメッ面を一ひねり五へん六ぺん旋回する。目をとぢ耳をふさいで一目散に逃げ去りたいのに、その心をさておいて何物かネチネチ尻をまくる妖怪じみた奴がをり、
「僕ァ貧乏なんだ。貧乏は天下に隠れもない三枝さんだからな。僕ァ芸術家なんだ。僕はエレエんだ。痩せても枯れても貧乏は仕方がねえ」
何のことだか、わけが分らない。けれども腰がぬけ、すくんだ感じで逃げるに逃げられず、やぶれかぶれ意外千万なことを喚きたてる。
「さうね、死なゝきや分らないわね」
マダムは入口の扉にもたれる。ちやうど廊下へ一人の男がタオルと石鹸もつて出てくる、この男も例の男の一人で、
「え? 死ぬ?」
「死なゝきや治らないと言ふのよ」
「あゝ、バの字ですか」
「さう」
マダムは頷き
「死なゝきや分らない、か。梶さん、今晩、のみに連れてつてくれない?」
男と肩を並べて行つてしまつた。
数日すぎて女房は戻つた。
何よりも仕事をしてゐないのが、せつないのだ。それがもとで、かういふことにもなる。たゞ仕事あるのみ。だが、どうして仕事ができないのか。女も酒も、夢の夢、幻の幻、何物でもない。
そこで彼は後輩の栗栖按吉に手紙を書いて、当分女房子供と別居して創作に没頭したいから君の下宿に恰好な部屋はないか、至急返事まつ、あいにく部屋がなかつたから、そのむね返事を送ると、もとより庄吉は一時その気になつただけ、女房と別れて一時も暮せる男ではない。按吉から返事がくると、ホッとして、
「オイ、部屋がないつてさ。ぢやア、仕方がねえや。ともかく、こゝにア居たくないから、小田原へ行かうよ。これから新規まき直しだ」
「私は小田原はイヤよ。お母さんと一緒ぢや居られないわ」
「だつて仕方がねえもの。原稿が書けなかつたから外に当《あて》もねえから、ともかく小田原で創作三昧没頭して、傑作を書くんだ」
「どうして荷物を運ぶのよ」
「たのめば、こゝで預つてくれるだらう」
「家賃は払つたの」
「原稿も書けなかつたし、前借りがあるから、もう貸してくれねえだらう。小田原へ行きや、ともかく、この部屋でなきやア、書けるんだ。書きさへすりやア部屋代ぐらゐ」
「だつて、今払はなきや、どうなるの。夜逃げなの。荷物があるわよ」
「だからよ。マダムのところへ頼みに行つてきてくれ。事情を言や分つてくれるんだ」
「あなた行つてらつしやい」
「オレはいけねえや」
「だつて親友ぢやないの」
庄吉が暗然腕をくんで黙りこんでしまふと、さすがに自分も失踪から戻つたばかり、宿六の古傷もいたはつてやりたい気持で、
「ぢやア、行つてくるわ。部屋代ぐらゐ文句言はれたつて構やしないわよ。堂々と出て行きませうよ」
「うん、荷物のことも、たのむ」
ところがマダムは話をきくと打つて変つて、好機嫌、二つ返事、折かへし挨拶にきて、
「おくにへ御かへりですつてね。お名残おしいわ。御上京の折は忘れず寄つてちやうだい。銀座へんから電話で誘つて下すつても、
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