つた、女房も今度の場合のやうな家出はそんなやうなもので、一応は必ず肉体的なことはイヤだと言ふにきまつてゐるのだから、相手がまだ学生で坊ちやんの浮田のことだからそれを押してどうすることになる筈がなく、極めて感傷的な旅行にくたびれてゐるぐらゐのところだらう。むしろ機会を失し、帰るに帰られず煩悶してゐるのかも知れず、それやこれやで御両名遂に心中といふやうなことになつてもなほ肉体の関係はないかも知れぬ。世上の俗事は、案外そんなもので、一向人目につかず亭主に知られぬやうな浮気に限つて深間へ行つてゐるもの、かういふ派手な奴は見かけ倒しで、両名却つてたゞ苦しんでゐるぐらゐのところだ、などゝ慰めた。そしてまだ陽のあるうちに、さつさと帰つてきてしまつたのだ。
 按吉に慰められてゐるうちは庄吉も力強いやうな気持で、すつかり相手にまかせきり安心しきつてウンウンきいてゐたが、按吉がさつさと帰つてしまふ、待ちかねたものを待つうちはまだよかつたが、すでに来り、すでに去つた、按吉の居るうちこそはそこに何がしの説得力もあつたにしても、按吉去る、その残された慰めの言葉は何物ぞ、たゞ空虚なる冗言のみ、女房はをらぬ、男と共に失踪してゐる、この事実を如何にすべき。
 庄吉の消耗衰弱は更に又、急速度に悪化した。
 庄吉の小学校時代からの後輩で文学青年の戸波五郎が、ちやうど彼の家と露路をへだてゝ真向ひに住み、縁先からオーイとよぶと向ふの家から彼の返事をきくことができる。戸波は庄吉の東京にゐる頃、東京にすみ、本屋の番頭で、殆ど三日にあげず遊びにきてゐた仲よしで、一緒に方々借金をつくつて飲み歩いた仲間であるが、この一年来小田原へ戻つて駅前に雑文堂といふ書物の売店をひらき、毎日出かけて行く。尤も、小僧に店をまかせて、時にはオトクイ廻りもやるが、自分は昼から酒をのんでゐるやうなことも少くはなく、売上げをその一夜に飲みあげて足をだして、もう夜逃げも間近かなところに迫つてもゐた。
 心配ごとで消耗する、何よりも友達が恋しい。友達がきて一緒にゐてくれると、時には苛々《いらいら》何かと腹が立つこともあつても、どこか充ち足り、安心してゐられる。
 戸波は大飲み助で、宿酔の不安苦痛、さういふものは良く分り、さういふ時には極度に友達が恋しいもので、その覚えが自ら常にナジミの深いことだから、庄吉の友恋しさに同情して、オーイと庄吉が向
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