行つて色々といたはられ、失踪からの帰りには一緒についてきてくれて宿六にあやまつてくれたのである。ところがまだ大学生のことだから、一番ありふれた俗世の実相がわからない。夫婦喧嘩は犬も食はないと云つて、昔から当事者以外は引込んでゐるべき性質のものだが、彼はすつかり女房の言ふことをマに受けて、失踪帰りの女房について送つてきたとき、先生、変な女にひつかゝるの言語道断などゝ一人前に口上をのべて先生を怒らせてしまつたものだ。
 そこで鬱憤もあるところへ、再び女房がワッと泣きこんできたから、大いに同情し、行くところがないから泊めて、と言ふが、脛《すね》カヂリの大学生では両親の手前も女は泊められない、そんなら一緒に旅館へ泊りに行きませうと、元々その気があつてのことで、手に手をとつて失踪してしまつた。
 一週間すぎても帰らない。庄吉もまつたく狼狽して実家へ問ひ合せたがそこにも居らず、探してみると浮田信之と失踪してゐることが分つた。浮田の父親は仰天して庄吉の前に平伏し、倅めを見つけ次第刀にかけても成敗してお詫び致します、マアマア、そんな手荒なことはなさつてはいけません、と彼もその時は大人らしく応待したが、さてその日から、彼は一時に懊悩狂乱、神経衰弱となり、にはかに顔までゲッソリやつれ、癈人の如くに病み衰へてしまつた。

          ★

 庄吉は後輩の栗栖按吉に当てゝ手紙の筆を走らせた。かういふ時に思ひだすのは、この憎むべき奴一人なのである。疑雨荘で女房が失踪したあとでも、女房子供と別居して彼の下宿へ一室をかりて共に勉強しようかと思ひつき、その一室がなくて小田原へ落ちのびたが、落ちのびる前日風の如くに訪ねてきて、荷物を片づけてくれたのもあの憎むべき奴であつた。
 そこで庄吉は按吉に当てゝ、この手紙見次第小田原へ駈けつけてくれ、君の顔を見ること以外に外の何も考へることができない、といふ速達をだした。
 然し彼はこの三年来、按吉ぐらゐ憎むべき奴はゐないのだつた。憎むべく、咒ふべき奴なのである。もつとも、親切な奴ではあつた。夜逃げの家も探してくれる、借金の算段もしてくれる、夜逃げごとに変る倅の小学校の不便を按じて私立の小学校へ入学させてくれる、さういふ時は親身であつた。然し彼は先輩に対する後輩の礼儀といふものを知らないのである。
 会へば必ず先輩庄吉の近作をヤッツケる。庄吉は酔つ払ふ
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