たれていけねえ、ウヰスキーはねえか、オールドパアがいゝんだ、などゝ泥酔して家へ帰る。女房柳眉を逆立てゝ、
「どこをノタクッて飲んでくるのよ。お米やお魚を買ふお金をどうしてくれるの。それを一々おッ母さんに泣きついて貰つてこなきやアいけないの。おッ母さんから貰つてくるなら、あなたが貰つてきてちやうだい。さもなきや、私はもう小田原にはゐないから」
「何言つてやあんだ。行くところがあつたらどこへでも行きやがれッてんだ」
 然し胸の底では彼の心は一筋の糸の如くに痩せるばかり、小説を如何にせん、もはや書きつゞける自信もない、待合の支払ひ、連日の酒代を如何にせん、この機会にして書き得なければもはや文学的生命の見込みもない、この切なさを何処《どこ》に向つてもらすべき。
 酔ひからさめれば、女房のくりごとも胸にくひこむ。いくらでもないお魚の代金まで母に泣きつく女房のせつなさ、もとより彼自身のせつなさなのだ。心配するな、金策してくる。そこで雑文を書き上京して雑誌社をまはり、三拝九拝ねばりぬいて何がしの金を手に入れる、友だちとお茶をのんで、なんしろ一枚のヒモノを買ふ金もないてんで女房の奴怒り心頭に発して、などゝ白昼は大いにケンソンしてお茶をなめてゐるけれども、夕頃に近づくと、どうも飲まずに汽車にのるのはテレちやうな、ちよつとだけ飲もう、そこでちよつと飲む、まアいゝや、今の汽車は通勤の帰りの人でこんでるからなどゝ、終列車で深夜に帰る。泥酔して、よろめき、ころがり、泥にまみれて、無一文、おまけに襟のあたりに口紅がついてゐる。
「この口紅は何よ」
「アハハハ。バレたか。アハハハ。それは疑雨荘のマダムに可愛がられちやつたんだ。アハハ」
 本当は新橋の片隅の横丁のインチキバアで人喰人種の口のやうな女にかぢりついて貰つたのだが、貧し貪すれば残るものは弱い者いぢめの加虐癖ぐらゐのもの、しすましたりと嬉しさうにダラシなく笑つて、かう言ふ。女房は烈火の如く憤り、気も顛倒した。彼女は宿六とマダムの交際の真相については露いさゝかも知らないのだから、貧苦に追はれて流浪十幾年、積年の怨み、重なる無礼、軽蔑、カンニンブクロの緒が切れた。
 翌日早朝、手廻りのものを包みに人気のない小田原の街を蹴るが如くに停車場へ、上京して、宿六の弟子の大学生浮田信之を訪ねてワッと泣いた。
 この大学生はこの前の失踪中もちよつと泣きに
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